鏡の森 short stories

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#017 『そばにいさせて』

 あなたの気配がとても近い、狭い部屋が好きだった。
 授業とバイトで忙しいから、寝に帰るだけの部屋なんて言ってたけど。料理なんてしないからって前提だったらしいけど、一口コンロじゃ実際不便すぎたわ。
 夏場、ロフトは寝るには暑すぎて、結局物置になっちゃったね。小さなソファベッドは窮屈だったと思うけど、硬い床で寝るよりはマシだったと思う。
 友達が来るようなことはなく、電気代がもったいないからって空いた時間は大学で時間を潰したりして。
 でも、あたしが来てからあなたは変わった。部屋にいる時間が少しずつ増えたし、真新しい包丁を怖々握って調理に挑戦しようとした。部屋には芳香剤を置いてみたり、水回りをこまめに掃除するようになったり。あたしに任せてくれてもよかったのにね。
 単位はもう取らなくていいんだ、って言い始めたのは、冬の終わりのことだったっけ。あたしは大学ってよく知らないから、あなたの言うことをそのまま信じた。
 いつの間にかバイトを辞め、授業にも行かなくなって、部屋であたしと二人きり。ユニットバスの音は壁越しによく聞こえるし、プライベートなんてない空間でも、あたしには逆に心地よかった。だって、いつもそばにあなたがいた。
 ずっとそれでよかったのにな。卒業する頃には引っ越すにしたって、あと一年はあると思ってたのに。
 ある日、聞き慣れないエンジン音を聞いたと思ったら、なんの相談もなくあなたが借りてきた大きなレンタカーが路肩に止まってた。そう言えば車を持ってないだけで、運転免許はあったんだったっけ。
 あなたは無言であたしを連れ出す。サプライズにしたって強引すぎた。行き先くらい教えてくれてもいいのにって思ったけど、聞いても答えてくれなかったかも。
 不慣れなせいか、ちょっと乱暴な運転でたどり着いた先は広大なダム湖の近く、人気のない山の中。ガードレールから見下ろす水の底にはうっすらと建物の影が見える。
 唐突にあなたはあたしを抱え上げた。部屋を連れ出した時と同じくらい強引に。そのままガードレールを乗り越え、あたしは水の上へと投げ出される。
 隙間から入ってきた水が冷たい。トランクにあった空間はあっと言う前に満たされて、圧迫感で身動きも取れなくなる。
 ねえ、どうして。あたし、狭いあの部屋が好きだったのに。
 狭い部屋が好きだから、何ヶ月もずっと静かにしてたのに。
 いくら水が重くても、あたしの体は軽くなって、いつか水面に浮かび上がるのよ。
 ほら、衝撃でトランクが薄く開いてる。
 本当はあたしにまた会いたかったの?
 それなら、すぐに会いに行くね。

お題/狭い部屋
2023/06/04 こどー

6/4/2023, 5:15:55 PM