「中学1年の頃、凄く好きだった人とはなればなれになったんだ。」
そんな声が後ろから聞こえてくるものだから、僕はペンを動かしていた手を思わず止めてしまった。
ここは、大学の研究室で、今この部屋には僕と先輩しかいない。
この部屋の主である教授は、今日はいない。大学以外にも仕事場があるので週に2回しかここに居ないが、勉強や集まりに使ってもいいよと生徒の何人かに鍵を渡しているものだから、この部屋は大抵誰かが居座っている。
僕はその鍵をもらったひとりなのだが、レポートに集中するために研究室を訪れたら、先輩が居たというわけだ。
先輩は、大学3年生。僕の2つ上だ。
実は高校も同じだったので、大学で出会った…という訳では無い。
でも、高校の頃から不思議な雰囲気を持つ人で、図書館で読書しているのを僕は時々見かけていた。
運良く時々話す関係には慣れたものの、先輩はすぐに卒業してしまい、僕はそんな先輩の後を追い掛けるように同じ大学に入学した。
話を戻そう。
急に小さな爆弾を投げてきた先輩をちらりと見ると、先輩はこちらを見ることなく背中を向けてパソコンに向かい続けていた。だから、先輩の表情は分からない。
分かるのは、先輩の長い綺麗な黒髪が光に当たって綺麗…ということだけだ。
僕は努めて冷静に、自分のレポートを書く作業に戻ろうとした。
「別れるときはね、凄く泣いたよ。」
「相手も泣いたんですか?」
「いや、泣いてる私を必死に慰めてくれたよ。」
「そうですか…凄く優しい人だったんですね。」
「あぁ。怒ってる所は、ほとんど見たことなかった。私に見せないようにしてただけかもしれないけど。」
カリカリ……カタカタ……。
そんな会話をしながらも、ペンとタイピングの音は変わらず部屋になり続けている。
「その人がね、今度結婚するんだ。」
ガリィッ。
言葉の衝撃に、思わずペンの軌道がおかしくなった。
「それは…寂しいですね。」
「あぁ…少しね。先日、家に結婚式の招待状が届いたからね。」
「……行くんですか?」
「行かないと駄目だろう?」
「無理しない方が良いですよ?」
「喜ばしい事だ。無理なんてしてるわけないだろう?」
「でも、好きだったんですよね?」
「違う。今でも好きなんだよ。」
いつの間にか、部屋の中にはタイピング音しか聞こえなくなっていた。
僕はこれ以上なんて言葉をかけたらいいか分からず、重い空気に耐えるようにペンを強く握った。
「とにかく、大好きな兄さんが幸せになってくれたら、私も嬉しいよ。」
僕は今度こそ動揺を隠しきれず、ペンを地面に落とした。
カツーン、と甲高い音が部屋にやけに響いた、気がした。
「私の両親は、私が中学1年の時に離婚してね。」
後ろで、椅子が回転する音がする。
「兄さんは父に、私は母についていったんだ。勿論、それからも定期的に会ったりはしていたけどね。」
僕も椅子を回転させて振り向くと、先輩は僕のペンを拾って、してやったり、という顔をしていた。
先輩は出会った時からそうだった。真面目そうな顔をして、人にイタズラするのが上手いんだ。
「ドキドキしたかい?」
「……知りません。」
ニヤニヤしながらペンを渡してくる先輩は得意気で、僕は当分先輩に叶うことは無いのだろうと思いながら、ペンを受け取るのだった。
11/17/2024, 9:39:11 AM