桔花

Open App

・胸の鼓動
どくん、どくん。
胸の鼓動が、あいつに聞こえてはいないか。そう思うと、冷や汗が伝った。
「絶対、動いちゃダメよ」
そう言い聞かせてはいるけれど幼い我が子が、どこまで我慢できるかわからない。もしもの時は…
「ねぇ、お母さん。お腹すいたぁ…」
この緊迫した状況には不似合いな、無邪気な声。全力のひそひそ声なのが愛らしい。
 ふっと、ほおが緩んだ。もしもの時、など、ない。何があっても、生き抜かなければ。私はこの子の、母親なのだから。
もう少し、我慢してね、と愛しい我が子の頭を撫でながら、私は密かに決意した。
どくん、どくん…

熊の鼓動、という名前を聞いたときから、その道はきっと、母熊のようなものなのだろうと思っていた。
どこまでも優しく、ときに厳しく、泣きたくなるほど温かい。
そんな私の淡い期待は、色んな意味で裏切られた。
そもそも熊野古道とは、古い街道の遺跡である。昔、熊野詣にいく人々が使ったらしい。つまり、舗装などされているわけがない。三十分も経たないうちに、運動不足の私はぐったりしていた。
想像の母熊がフンっと鼻を鳴らす。こんなの、厳しいだけじゃないか…
口をへの字に曲げたままもう一歩足を踏み出すと、見事につんのめってしまう。
「危ないっ!」
ガシっと、次の瞬間私は誰かに支えられていた。私をここに連れてきた張本人、幼なじみで腐れ縁の綾人だ。見かけによらず、がっしりした腕。飛びのきざまに、パチリと目が合った。
どくん。
なに、これ。カッと耳が熱くなった。やめてよ、その言葉を、うまく発せられたかどうか。
「お、お前鈍臭いんだからさ、こうしようぜ」
綾人の手が、宙ぶらりんになった私の手を無造作に掴む。ビクッと肩が跳ね上がった。
おずおずと見上げた綾人の表情は、ほんの少し不安げに見えた。
不意に肩の力が抜ける。何だかおかしくなって、私はそっとその手を握り返した。どくんどくんどくん。
指先の体温が愛しくて、狂おしくて、たまらない。
私は間違ってなんかいなかった。
熊野古道は今この瞬間も、優しく、温かく…生暖かい、の間違いかもしれないが…私たちを見守っているのだから。

9/8/2023, 2:46:19 PM