結城斗永

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『沖縄本島に接近中の非常に強い台風5号は、勢力を強めながら北北東へ進んでいます――』
 ラジオの声を聞きながら、最後の植木鉢を室内に移し終える。ふぅとため息をつき、仕上げに木製の雨戸を壁の隙間から引き出していく。
 これまでの生活をすべて捨てて沖縄に移り住み、築50年以上の木造古民家を借りたのが今年の春。半年が経っても、室内に現れる虫と格闘する以外、まだこれと言って古民家暮らしらしいことをしていない私が、今日初めての試練を迎えようとしていた。
 敷居に敷かれたゴムのシートがすり減っているせいか、思いのほか重たい木の扉は、ガッタンガタンと時折つんのめりながら、徐々に外の明かりを遮っていく。
 完全に雨戸を閉め切ると、一気に外界から遮断されたように、外の様子がわからなくなる。

 今年に入って4回発生した台風は、すべて沖縄本島をそれ、直撃は免れていた。
 ――心配やーあらんど。くぬ家(や)ぁも、もう何十回と台風には耐えてきたからね。
 今朝、家の様子を見に来た大家のおじぃの言葉を思い出す。
 私は畳間に腰掛けて、座卓の上におじぃが分けてくれた蝋燭とマッチを並べる。
 
『台風5号は、八重山諸島で中心気圧930ヘクトパスカル、最大瞬間風速45メートルを観測し――』
 夕方になり、風が雨戸をガタガタと揺らす音が大きくなる。つられて内側のガラス窓もバリバリと音を立てた。
 瞬間、プツンと部屋中の明かりが消えた。どうやら停電が起こったようだ。私はおじぃの蝋燭に火をつけて、座卓の上に立てかける。柔らかい明かりが室内をぼんやりと照らす。
 
 外界から遮断されると、時間の感覚が全く分からなくなるのだと実感した。何もすることがなければ尚更で、それがたまらなく不安だった。
 気を紛らわすように、読もうと思って積んでいた小説を数冊持って、座卓の前に座り込む。両手で抱えた膝の間に顎を預けるようにして、蝋燭の明かりで読書にふける。
 どのくらいの時間が経っただろうか。ふと、雨戸を殴りつけるような音が耳に入り、移住前の記憶が脳裏に湧き上がってくる。

     ◇
 
 ――ドンドンドンッ!
「頼むから、話を聞いてくれ!」
 自室の戸に鍵をかけ、うずくまるようにしてベッドの脇で泣いていた私。戸を激しく叩く音に続いて、かつて夫だった男の声が聞こえてくる。もう何度目かの浮気だった。
 残業続きだった私が、ある日早めに仕事を終えて帰宅すると、そこには私の知らない下着姿の女がいた。何も知らずにリビングのソファで眠りこくっている夫をしり目に、女はそそくさと帰っていく。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
 私の声は女には届かず、代わりに夫が寝言のように私以外の名前を呼び、むくりと起き上がってきた。もうケンカどころか面と向かって話をする気も起きず、私は部屋に籠って泣いた。

     ◇
 
 手から零れた小説の単行本が、足の甲を打ち付け、痛みで我に返る。顔をうずめた膝が濡れていた。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
 気づけば、雨音は止み、風も収まっていた。外からは軽快な小鳥の鳴き声が響き、雨戸の隙間からかすかな光が漏れ入っている。
 私は痛む足をさすりながらゆっくりと立ち上がる。固まった腰に手を当て、息を止めて一度大きく伸びをした。息を吐いた瞬間、体の中の悪いものが一気に抜けていくようだった。
 
 外に出ると、大家のおじぃが庭に散らばる枝葉を掃除している。
「大家さん、私も手伝います!」
「でーじ、助かるさぁ」
 私の声に気付いたおじぃが、額の汗をぬぐいながら笑顔で答える。
 ――もう過去は振り返らない。
 いろいろあったけれど、すべてを捨ててイチからの再スタート。
 見上げた台風一過の空は、まさに雲一つなく青々と広がっていた。

#台風が過ぎ去って

9/12/2025, 5:03:50 PM