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「他に好きな人ができたんだ。別れよう」

 ついにこの日が来てしまった。私はこの提案を受け入れるしかない。分かった、と頷いた。いつかこんな日が来ると思っていたという諦念、こんな日々も終わりだという安堵、これで良いのかという疑問、彼への未練、その他諸々の渦巻いた感情が溢れそうで、思わず俯いた。



 その知らせが届いたのは突然だった。
「恋人の沙月さんのお電話でお間違いありませんか」
「はい、そうですが……?」
 恋人からの電話に少し浮かれながら出ると、知らない人の声が耳に入った。
「郁人さんが事故で……」
「えっ」

 必要最低限のものをかばんに詰め込んで、家を飛び出す。恋人の郁人が事故に遭ったというのだ。まるで心臓を掴まれたように痛くて、呼吸が乱れ冷や汗が流れる。大丈夫だ、と何の根拠もない言葉を自分に繰り返し唱え、郁人が運ばれたという病院へ向かった。

「郁人! 大丈夫!?」
 息を切らしながら病室へ駆け込むと、きょとんとした恋人が私を見つめた。
「ええと、どちらさまでしょうか」
「え……?」
 恋人から発せられた言葉が信じられずに聞き返す。ベッドの側に立っている医者が痛ましそうな顔で私を見た。
「残念ながら、郁人さんは……」
 郁人は記憶喪失になっていた。幸い身体はそこまで酷い怪我を負っていなかったが、頭を強く打ったらしい。頭に包帯を巻いた彼は、不安そうに私を見つめていた。彼は両親と絶縁しており、孤独の身だ。友人もいるが、恋人である私が世話をしなければ、他に頼れる人がいない。私は覚悟を決めた。もしかしたら、そのうち記憶を思い出して、また昔のように戻れるかもしれない。

 郁人が入院している間は問題がなかった。
「沙月さん、いつもありがとう」
「……どういたしまして」
 沙月「さん」という呼び名に、少し距離を感じて寂しくなった。でも、これから関係を戻していけばいいのだ。また昔のように「沙月」と呼んでもらえるように頑張ろう。

 郁人が退院した後はまた一緒に暮らし始めた。元々は結婚を前提に同棲していたのだ。入院中は郁人に会うために病院に通っていたが、これからは郁人と一緒にいられるようになると思うと嬉しい。でも、それが間違いだったかもしれない。

 郁人はアニマル映画が好きだった。特に犬が好きで、一緒に見て可愛いねと笑い合っていた。だから犬が出る映画を見ようと再生しても、彼はつまらなそうに画面を見ていた。
 映画を見終わった後、つぎはこれが見たいと示したのはアクション映画。私はアクション映画も嫌いではないので一緒に見ていた。が、ふと見た彼の表情に驚いた。
 記憶を失う前の彼はビビリだったので、アクション映画で主人公がピンチに陥るたびに「ヒィ」と情けない声を出してそわそわとしていた。しかし今横にいる彼は、身体を前のめりにして目を夢中になって映画を見ていた。目の前にいる彼と私の記憶の中にいる彼があまりにも違いすぎて、目の前の彼から目を背けてしまった。
 他にも緑茶好きだった彼が毎日コーヒーを飲み、趣味だった写真に目もくれず、絵を描き始めた。味の好みも変わってしまったようで、夕飯を作っても「おいしい」と言ってくれなくなった。
 彼がもう別人であるという現実を少しずつ突きつけられていくような感覚だった。それでも「沙月」と笑って私を呼ぶ彼に、私は過去の彼を重ねて希望を捨てられなかった。

「他に好きな人ができたんだ。別れよう」
 そう言われるのも、時間の問題だったのだ。今の彼はもう別人である。最初に見た人間だったから、記憶を失う前に恋人だったと私が言っているから一緒にいただけで、彼から私への好意は無かったのだろう。別の人を好きになったとしても、おかしくなかった。
 私は頷き、俯く。もうこれ以上、郁人が変わってしまった現実を見なくて良いんだ。彼が俯いた私を心配そうに覗くので顔を上げると、頬を掻きながらあさっての方向に視線を向けた。その仕草にハッとする。記憶を失う前の郁人も同じ仕草をしていた。これは嘘をつくときの郁人の癖だ。
 私は気付いてしまった。もしかしたら彼に好きな人なんていないのかもしれない。退院してから私とずっと一緒にいたのだから、他の人と会うなんて時間はなかったはずだ。
 私のためなのだろう。過去の彼と今の彼を比べてしまう私のため、勝手に比べては「もう知っている彼ではないのだ」と眉を下げてしまう私のためだ。
 今更知りたくなかった。あなたは記憶を失っても、前と変わらない優しさを持っているなんて。
「うん、そうだね。別れよう」
私の恋は、あの事故で“彼”とともにとっくに死んでいた。頬に伝った温かさがその証拠だった。

『愛−恋=?』
 いつまでも“俺”に縛り付けるわけにはいかないから

10/16/2025, 6:57:43 AM