うみ

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#90 心と心

 ――それはそれは美しい。


「『心と心が触れあうときの音は、どんな言葉でも言い表すことができない。軽やかな鈴の音のようであり、小鳥のさえずりのようであり、はたまた自分の声のようでもある。君は聞いたことがあるかい。それはそれは美しい、不思議な音色なのだよ』」

 手元に本が無くてもすらすらと言えてしまう文章をそらんじてみせる。知り合って一年ほどが経った友人は、大きな瞳を一度だけ瞬かせた。


「詩、ですか?」
「いいえ、小説の一節よ」
「エッセイを読んでいる印象が強かったです」
「何でも読むわよ、暇つぶしになればね」
「最近、何か面白い本はありましたか」
「L・ガートの『明るい日暮れ』は楽しかったわ」
「どんなお話なんですか?」
「陽が沈まない国で暮らす作者のエッセイよ。……あなた、いつも質問ばかりするのね」

 りんどう色の瞳が揺れる。答えを見失った幼子のように視線が宙をさまよって、床に着地した。

 元貴族というだけあって、彼女の仕草や話し方には品がある。それだけに、何度も重ねられる質問が少し奇妙だった。

「……すみません」
「別に怒ってるわけじゃないわよ。何か理由があるの?」
「……学園では、質問をすると評価が上がったので」

 きつく組まれた手が、良い思い出ではないことを物語っている。学園……貴族の子供が通う学び舎の通称だ。そこでの話を詳しく聞いたことは無いけれど、いつだったか、優秀な姉と比べられ続けたと零していた。

「駄目ですね、一年も経つのに」
「一年しか、よ」
「それでも。まだ私はあの家の価値観に囚われたままです」

 ――こんなにしあわせなのに。

 そう言って諦めたような笑みを浮かべるから、酷く腹が立つ。成人して家を出てもなお苦しむほどの傷を、彼女の周囲の人間は十八年間与え続けたのだ。

「もっと幸せになりなさいな」
「これ以上ですか?」
「そうよ」
「それは、なんだか少しこわいです。失った時に、一人で生きていけなくなりそうで」
「あら、あいつが信じられない?」

 誰よりも彼女の幸せを願う、古い友人を思う。世界を変えようと走り回る男が心を砕く、数少ない存在が彼女だ。

「いいえ、自分が」
「ならわたしがあなたを信じてあげるわ」
「……どうして、そんなに」
「人の幸せそうな姿を見るのが趣味なのよ」

 手を繋いで微笑み合う姿も、ふとした瞬間に左の薬指の指輪を優しく撫でる姿も、見ているだけで心が緩んで安心する。こんな世の中にも幸せは存在するのだと知って。

「ご自分のしあわせは?」
「もう貰ったわ」
「……?」
「ずうっと昔に、一生分ね」
「でも、私」
「なあに?」

 柔らかな紫の瞳が強い意志を宿して光る。……ああ、これがあいつの言っていた「強い瞳」ね。

「あなたがしあわせな姿も見たいです」
「……あの子と同じこと言うのねえ」

 見た目も性格もまるで違うのに。

「なら、あなた達が幸せになる姿をたくさん見せてちょうだい?」
「私たちが、ですか」
「そう。幸せな人たちを見ると幸せになるから」
「わかりました。幸せになります」
「よろしくね」

 顔を見合わせて微笑み合う。



 ――心臓のあたりから、鈴のような小鳥の声のような自分の声のような、不思議な音がした。

12/13/2024, 10:02:13 AM