#柔らかい雨
雨というものは冷たく、時に痛い。柔らかい雨など存在するだろうか。
栞は高畑に言われた言葉を思い出しながら、わずかに首を傾げた。
雨はまだ止みそうにない。傘を持ってくれば良かった。雨宿りのつもりで駆け込んだこの軒先にいつまでいようか少しの間逡巡し、携帯の時計を確認して諦めた。
「栞ちゃんは柔らかい雨のような存在なんだ」
先ほど高畑に言われた言葉。続きはなかった。ちょっと照れくさそうに笑って、「じゃあ」と3つ年上の先輩は去っていったのだ。
「雨って濡れるしあんまり好きじゃないんだよな」
つい口を尖らせてしまう。隣に同じように避難していた中年男性がチラリとこちらを見た。栞は慌てて会釈して下を向く。そして今日のことを考えた。
お姉ちゃんの友達。それが高畑を表すただ一つの表現。それ以上もそれ以下もなく、また、その他もない。
たまに家に遊びに来るから、挨拶くらいはする。
お姉ちゃんの命令でコンビニにアイスを買いに行くときに一緒に行ってくれたり、お姉ちゃんに用事があって教室の入り口でモゴモゴしていると真っ先に栞に気づいてお姉ちゃんを呼んでくれる人。
考えてみれば、高畑はいつも栞に優しい。
今日もお姉ちゃんの誕生日プレゼントを一緒に選んでくれた。
部活が忙しいはずなのに、今日なら補講で居残りのお姉ちゃんにバレないからと、駅で待ち合わせしてくれた。
そのおかげで栞は無事にお姉ちゃんのクラスで流行っているキャラクターのポーチを買うことができた。
その帰り道。栞はなんの気なしに呟いたのだ。
「なんでこんなに良くしてくれるんですか?」
高畑の答えが先ほどの言葉だった。
「栞ちゃんは柔らかい雨のような存在なんだ」
好きということなのか、嫌いということなのか。いや、嫌いというニュアンスは含まれていなかっただろう。それくらい、中学生の栞にもわかった。
どのくらい首を傾げていただろう。栞がふと気づくと、雨が止んでいた。
再び携帯の時計を確認し、走って家に向かった。走っている間は、高畑のことも雨のことも考えていなかった。
その夜、栞はお姉ちゃんに「柔らかい雨ってどういう意味かわかる?」と聞いてみた。
「霧雨のことじゃない?」
なるほど、と栞は思った。私は霧雨?
次にお母さんにも「柔らかい雨ってどういう意味かわかる?霧雨のこと?」と聞いてみた。
「国語の宿題か何か?ネットで調べてみたら?」
高畑の言葉の真意がネット上に転がっているわけなどないので、お母さんには「ありがとう」とだけ返した。
お父さんは栞が起きている間には帰って来なかった(これはいつものこと)。
寝る前も栞は高畑のことを考えた。答えが出ることもなく、意識が落ちて、そして朝になった。
中等部と高等部は同じ敷地内の隣り合わせのため、その日も栞はお姉ちゃんと一緒に登校した。
いつも通り、パン屋さんの角を曲がると高畑が待っていて、お姉ちゃんの隣に並ぶ。
高畑に変わった様子はない。昨日の朝と同じように「はよ」と短くお姉ちゃんと挨拶を交わし、栞に「おはよう」と微笑む。
お姉ちゃんと高畑は栞にはわからない話をずっとしているし、栞はわからないまま歩く。
学校に着く前に、栞は高畑に昨日のことを聞きたかった。でも、お姉ちゃんには聞かれたくない。
その日はチャンスが訪れることがないまま終わった。
わざわざ高畑を呼び出して聞くようなことではない、そう栞に決心が着くまで三日かかった。つまりはそれまで言うに言えず聞くに聞けず、栞の頭の中は高畑でいっぱいだった。
高畑に会うことはある。大体お姉ちゃんと一緒にいるし。毎朝3人で登校するのだ。それなのに2人きりで話す機会がないまま。ただ、高畑の顔、話し方、声、仕草を思い出しては懊悩し、栞の胸に高畑がどんどん濃く焼きついていった。
日曜日。高畑が遊びに来た。私服の高畑は慣れない。学校帰りに来る高畑と違う人のように感じる。栞は自分の部屋に閉じこもって、高畑が帰るのを待った。
しかし、お姉ちゃんの気まぐれはそれを許さなかった。
「栞!ちょっとコーラ買ってきて」
ドアが勢いよく開き、仁王立ちのお姉ちゃんが栞に命令した。この絶対服従の命令を聞かないと、後で酷い目に遭う。栞は「ええ……」と口の中で不満を殺すと「はあい」と立ち上がった。
「栞ちゃん、それじゃ一緒に行こう」
お姉ちゃんの後ろから高畑が笑顔で手招きをする。
「えー、高畑も行っちゃうの?自販機すぐじゃん」
「かわいそうでしょ」
「じゃあスマブラの続きしてっわ」
お姉ちゃんは手をヒラヒラさせながら戻っていった。栞は高畑に軽く頭を下げて一緒に玄関を出た。
コーラが売っている自動販売機までは数百メートル。
その間に栞は決意を持って、高畑に尋ねた。
「あの、この間言ってた……」
「ん?何?」
高畑の顔が近い。揺らぐな決意、と思いながら続けた。
「私のこと、柔らかい雨って、どういう意味ですか?」
高畑は立ち止まり、「えと……」と僅かに言い淀んだあと。
「心地良いから、ずっと一緒にいたいって意味だよ」
栞も立ち止まった。立ち止まって、振り返り、優しく笑む高畑を見て、そして、しゃがみ込んだ。
なんなのなんなのなんなのなんなのなんなのなんなのなんなのなんなの……。
なんなのかは、わかっているのに心が追いつかない。
急にしゃがみ込んだ栞に、高畑が慌てて手を差し伸べる。
「どうしたの?具合悪くなった?」
「そうじゃなくて!」
「大丈夫?」
「わ、私も!高畑さんがお姉ちゃんだったら良かったのにって、いっつも思ってました。高等部では高畑さんがキャプテンしてる女子バレー部に入るつもりだったし、私、その……」
声が徐々に小さくなり、最後は消え入りそうに「好きです」と言った。
栞は顔を伏せていたため、その時の高畑の様子は見えなかった。自分のことで精一杯だったし、いつものセーラー服姿ではないボーイッシュな格好の高畑は栞の目には眩しすぎた。
「そうかぁ」
残念そうな、嬉しそうな、そんな高畑の声を聞き、栞は面を上げた。
いつの間にか、雨が降っていた。
「ごめんね、栞ちゃん。私、実は……」
雨音が栞の耳を塞ぐ。高畑の言葉は聞こえない。
やはり雨は冷たく、痛い。どんどん、栞を濡らして体が心が頭が冷えていった。
柔らかい雨など、なかったのだ。栞は天を仰いだ。
2023・11・7 猫田こぎん
11/7/2023, 6:56:00 AM