sairo

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とん、とん、とん。
戸が叩かれる音がした。
首を傾げる。時間はまだ早朝。呼び鈴があるのに、何故とを叩くのか。
特に、親類知人は勝手に戸を開けて入って来るはずだ。
しばらく待っても何の反応もない。気のせいだったのかもしれない。

とん、とん、とん。
また、戸が叩かれる音がした。
一つ息を吐いて立ち上がる。億劫ではあるが、確認しなければならないようだ。

「どちら様ですか?」

冷え冷えとした玄関で声をかける。だが答えはない。

とん、とん、とん。
戸が叩かれる。磨りガラス越しに、人影は見えない。
気づかない振りをして戻るべきなのかもしれない。そうは思うが、戻った所で気になって仕方がなくなるのだろう。
嘆息して、ゆっくりと戸に近づく。取っ手に手をかけ――。

「――うわっ」

がらり、と戸を開けた瞬間。
凍えた狸が数匹、玄関に転がり込んできた。



「先日助けて頂いた狸です。お礼をしに伺いました」
「あ、結構です。最近はそういう類いの押し入りが増えていると聞くんで」

礼をしに来たと言いながら、避暑地や避寒地として人が住む家に乗り込む獣が多いと聞く。特にイタチや狸が、言葉巧みに入り込もうとするというのだから、警戒はいくらした所でし過ぎることはないのだろう。

「いえ、本当にお礼を……」
「お山に帰りなさい」
「後生ですから!」

泣き出す一番大きな狸に溜息を吐く。おそらく母親なのだろう。
先日、当たり屋の如く止まった自転車にぶつかり転がった狸を思い出す。目の前の狸とは別だと思われるが、関係はあるのかもしれない。
何度目かの溜息を吐く。子狸たちは訳も分からず目を瞬かせているのが、さらに落ち着かなくさせた。

「――山に、何かあったか?」

あまりの必死さに問いかければ、親狸ははっとして顔を上げる。居住まいを正し、真っ直ぐにこちらを見つめた。

「熊が、荒れております」

そう言えば、最近は山奥を縄張りとする熊が人里に降りてきているという話を良く聞いた。気性が荒く、見境なしに人や家畜を襲うのだとも。

「あれは、ただの熊ではありません」

真剣な顔をして親狸は言う。

「おそらくは、北の地に住まう神で御座います。海を渡り、こちらの獣の皮を纏って降り立ったのでしょう」

身を寄せ合って震える子狸たちを宥めながら、親狸は深く頭を下げる。どうか、と願う声は震えていた。

「後生です。子供たちだけでも、匿って頂けませぬか。夫は昨夜から戻らず、私だけでは子供たちを守ることは難しいのです」

親狸に倣い、子狸たちも揃って頭を下げる。真剣な姿に、仕方がないと立ち上がる。

「北の神だって?」
「え?……は、はい!あの荒々しさは間違いありません。北に住まう神で御座いましょう」
「ならカムイ……キムンカムイ《山の神》だ。さすがに子熊ではないだろうから正式な送りはできないから、こちらの形式で祀り送ればなんとかなるだろ」

山へ向かう準備をしながら、コタツの上の煎餅を割り皿に盛る。戸惑うばかりの狸たちの前に皿を置き、コタツの温度を低めに設定し直した。

「ちょっと出てくるから、留守を頼む」
「あ、はい。行ってらっしゃいませ?」
「留守の間、山神様が愚痴を言いにくるかもしれんが、適当にもてなしておいてくれ」

手を振りながら、部屋を出る。戸を閉めた途端、親狸の驚きと悲痛な叫びが聞こえた気がしたが、気に留める程のことではないだろう。
山神を祀る眷属の家だと、知らずに訪れた狸が悪い。

外に出れば、凍てついた風が頬を掠めた。山の異変を伝える声に、思わず眉を顰める。
状況は思っていたよりもよろしくないらしい。カムイの怒りが強く、住処を追われる獣たちが後を絶たないようだ。
山に向き直り、手を合わせる。静かに祈りを捧げ、猟銃を背負い直した。
山に向かい、歩き出す。風に導かれ、カムイの元へと向かっていく。

辿り着いた場所で、カムイは静かに佇んでいた。
伝えられていた荒々しさはない。怒りよりも哀しみが伝わり、眉が寄る。

「キムンカムイ」

呼びかければ、カムイは金の目をこちらに向けた。
強い意思を秘めた目だ。怒りと哀しみに満ちたその目は、どこか泣いているようにも見えた。

「カムイモシリ《神の国》へとお送りしましょう。あなたの肉を毛皮を祀り、恵みとして大切に頂戴致します」
「人間の子」

低い声。凪いだ声音に戸惑えば、カムイは静かに問いかける。

「お前は、ここの山神の血を引く者か?」

強い目は最初からすべて知っているようで、密かに息を呑んだ。
誤魔化しや嘘は通じない。目を逸らすことも許されない気がして、カムイを見据えながら口を開く。

「時代と共に薄れていますが、私の先祖は確かにこの山の神だと伝え聞いております」
「そうか」

低く呟いて、カムイの姿が揺れ動く。咄嗟に猟銃を構えようとしたが、それより早くカムイに腕を引かれた。
喰われる訳ではなく、ただ強く抱き締められる。
理解が追いつかない。

「――えっと」
「この身を糧として、健やかに生きよ……会えて嬉しかったぞ」
「それって……」

詳しく尋ねる前に、カムイは離れていく。
それと同時に、体が自分の意思とは無関係に動き出した。猟銃を構え、カムイに照準を合わせる。

「っ、待って……!」

止める間もなく、指が引き金を引いた。





「お帰りなさい。ご無事で何よりです」

玄関を開ければ、親狸が律儀に座って待っていた。

「あの、それで……北の神は……」

言いかけて、狸の目が大きく見開かれる。開いたままの口から、二呼吸ほど遅れて悲鳴に似た叫びが漏れた。

「――まぁ、そうなるよな」

肩に乗った小さなカムイを一瞥して、小さく溜息を吐く。獣の皮を脱いだ本来の神は、とても小さい姿をしていた。
倒れ伏した熊の額に、小さなカムイが座っていたのを見た時は、確かに自分も悲鳴を上げかけた。

「今、妻の叫ぶ声が聞こえた気がしたのですが……」

狸の叫びを聞きつけて、裏に熊を運び込んでいた男が寄ってくる。道中出会ったこの男は先日介抱した狸であり、どうやら目の前で硬直している狸の夫らしかった。
玄関を覗き込み、自身の妻の姿を認めて息を呑む。ぽんっ、と軽い音を立てて狸の姿に戻ると、妻の元へと駆け寄った。

「あ、えっと……だ、大丈夫か?」
「っ!?生きていたんですか?なら、どうして……どうして戻ってきてくれなかったんですか!私はてっきり……!」
「す、すまん。ちょっと草陰で、伸びてしまって」

二匹のやり取りに、居心地の悪さを感じてそっと外に出る。早く家の中で暖まりたいが、仕方ない。勝手口から入ろうと、家の裏に回り込む。

「賑やかだな」
「賑やかですねぇ」

カムイの言葉に同意する。
数時間前に押しかけ同然で現れた狸たちだったが、悪いばかりではなかったようだ。

「そう言えば、なんでこちらに来たのですか?しかもかなりお怒りな状態で」

ふと気になったことを尋ねて見る。肩の上でカムイは目を瞬かせ、そっと顔を逸らした。

「何度便りを送れど、姫は子について教えてくれなんだ。こうして海を越え訪れたというのに、姫は姿すら見せてはくれぬ」

微かな呟きにすべてを悟る。
つまり自分は二柱の山神の子孫だということになるのだろう。
何も言えず、無言で勝手口の扉を開ける。暖かな室内の空気に、一気に疲れが押し寄せた。
少し眠ろう。思い体を引き摺って、自室へと向かう。

「気分が優れないのか?」
「疲れました。こんな凍てつくような寒い朝に、大仕事をしたので……起きたら祭事をしますので、申し訳ありませんがそれまでお待ちください」
「構わん。元より戻るつもりはなかった」

当然だというように告げられた言葉に、すぐには意味を理解できずカムイに視線を向ける。カムイは大きく頷くと、牙を見せ笑った。

「これからよろしく頼むぞ。愛し子よ」

凍える朝。
増えたいくつもの温もりに騒動の予感を感じ、くらりと目眩がした。



20251101 『凍える朝』

11/3/2025, 6:23:27 AM