「愛言葉」、とは初めて見る。
愛の言葉ってことだよね…?
愛、とひと言で言ってもいろいろあるよな、と思う。なので仏教の表現の「愛」という言葉をつついてみる。この場合の「愛」は、現代で一般的に用いられている意味とは違うそうだ。「愛着」と仏典の中でいうと余りよろしき意味ではないらしい。昔読んだ本に、「愛=love」という概念は、明治期の「文明開化」で外国から入って来たものだということが論じられていたのを思い出した。
日本の「気持のすがたを表す」言葉で聞いたことがあるのは、「懸想」=想いを懸けるとか、「執する」=執着するとか、気持ちの質やベクトルの違いが、はっきりと区別されているものだ。対象となる人をどう思っているのかは、「どうしたいのか」という表現に直截されることも多かったのかもしれない。例えば「添い遂げたい」とか。
誰だったか、戦国時代の武将の中に、「愛」の字形を兜に乗せていた人がいたよね…?
「傾き者(かぶきもの)」が多かった時代、兜に自分の心意気を表現する将も多かった。「愛」の字形はまだ静かなもので、握り拳が兜から生えてたり、極端な将だと兜に卒塔婆を付けていたりしたという。これは「俺は死ぬ事なんざ恐れてないぞ」という、尖ったやる気を示すものだったそうだ。そういう心意気の示しとして「愛」の字。
仏典の中で、「愛」は最上の心ではない。遍く照らす「佛の心」と「愛」とは全く違う、って書かれている。
愛を想うとき、必ず対象がある。
私もそうだが、きっと誰しも「最愛」があると思う。既に見つけているか、これから出会うかは人それぞれとして、その心が芽吹いて咲くための種(ポテンシャル)は必ず内側に持っていると思う。
自分の響きが見つけ出せる「誰かを愛してやまない」という心は、間口なのかもしれない。個人的なものだし、誰も彼もということにはならない。
私は私の最愛の者に愛着する。執着も…ゼロではない。特別な存在。皆同じに遍く照らすなんて、まだまだムリだ。でも、深いこころが自分にもあることを、私の最愛は私に体験させてくれるのだ。
…愛言葉?
もう沢山出しちゃってるから、今日はここまで。
10/26/2023, 4:58:51 PM