ゆじび

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「言葉にならないもの」


僕の初恋は耳の聞こえない女の子だった。


初恋はカルピスの味がする。
実際にはしなかったが甘くて酸っぱい初恋はカルピスのようだろう。

耳の聞こえない女の子はいつも前向きだった。
音は聞こえない。なにも聞こえない世界で生きているにもかかわらず。
彼女の言葉は完璧とは言えないけれど、途切れ途切れでも十分理解できる程度だった。
でも彼女が僕や他の人と言葉を発して会話をしているところをみたことがない。
当時の僕はなぜか聞いた。
聞いてみると下手くそな会話で迷惑をかけたくない。そうだ。今思うと僕はこの会話の後に恋に堕ちたのかもしれない。こんなに素敵な人にであったことがないと思った。


彼女は犬が好きだった。
人間は耳が聞こえないと知ると気を付かってあまり近づいて来ないそうだ。
だから遊んでと真っ直ぐに自分を見つめてくれる犬が好きなのだと、彼女は言っていた。

彼女は寝るのが好きだった。
どうやら夢の世界では音が聞こえるそうだ。
知らなかった、人の声、犬の声、蝉の声。
初めて「音」を知ったとき世界が大きく動いたと思ったらしい。

彼女は。
「愛」を愛していた。
こんな世界でも前を向いて進めるような光を発する
「愛」が大好きだった。

彼女は生きていた。
必死に愛にすがって世界に希望を持って。
いつか、いつかこの世界で音が聞こえる様に。
いつも願っていた。


彼女は死んだ。
交通事故だって言っていた。
車の音が耳に届かなかったのだろう。
そこで僕は初めて声を出せなかった。
出そうとしても怖くて。
「悲しい」とか「そうですか」とか言ってしまうと彼女が
いなくなったことを認めてしまったようで。
歯と歯のわずかな隙間から声にならなかった声が漏れ出てくるだけだった。

彼女はきっといつもこんな気持ちだったのだろう。
言葉を発したとしても自分では自分の声もなにも聞こえない。
話していると実感がわいてしまったのだろう。
自分に音はないと。音とは夢幻なのだろう。と

彼女がいなくなった今、気付いたとしてももう遅い。
もっと他の方法があったのではないだろうか。
支える方法があったのではないだろうか。

今ではもうあの頃の、学校から帰ってから飲む甘くて酸っぱいカルピスの味は思い出せない。

彼女は上を向いて生きて、死んでいった。
だから僕も下ばかり向いていられない。
僕には「音」があるのだから。
音が聞こえない人に音を届ける方法を1日でも長く考えよう。


今でも貴方への甘くて酸っぱい気持ちは言葉に出来ない。
この気持ちは手紙にでも書いて伝えてみようか。


「言葉にならないもの」




8/13/2025, 2:42:34 PM