舞輝薇

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上の階に住むじいさんが死んだ。

夕食中に突然この事を伝えてきた母は、まるでニュースでよく見る赤の他人の出来事のように、軽々しい口調だった。

「え…3階の…?」

手から滑り落ちた箸を拾いながら恐る恐る問いかけると、

「そうよ。3階の泉さん」

淡々と答える母の視線はテレビに釘付けだ。
時折笑い声も聞こえてくる。

「…あのさ、死因って何だったの」

「あんた、そんなに泉さんのことが気になるの?」

「…そんなことない、けど。話したことくらいはあるから」

「ふーん…。一昨日の朝、救急車が来てたでしょ?そのまま病院に運ばれたけどポックリ逝っちゃったらしいの。お母さんも詳しくは知らないけど、肺が真っ白だったって。煙草吸いすぎたんじゃない?」

「…肺が白くなるのは、肺炎が原因じゃなかったっけ…?」

「あっそ、あの人いつも汚らしい格好してるからてっきり。…ごちそうさま。あんたも食べ終わったらさっさとお風呂入っちゃいなさい」

「…ああ、うん」

母は空になった食器を持ってキッチンへ向かう。
どことなく言葉の節々に嫌悪感が漂っていた。

(俺が泉さんと仲良かったことを話したら、余計に眉間の皺を増やすことになりそうだ…)

口から出そうになった言葉を飲み込み、頭の中だけでこれまでの思い出を懐かしむことにした。
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「おう、おかえり」

「…あ、泉さん。えっと…ただいま」

兄が亡くなってから日に日に両親の関係は悪化し、いつの間にか母子家庭になっていた。

夏場はゴキブリが絶えないような5階建てのボロいマンションに住んで早10年。
周りの住民とあまり馴染めずにいたが、ある日の学校帰りに泉さんが声をかけてくれたことで少しずつ交流するようになっていった。

とある日は、

「ほれ、これ食え」

「…せんべい?」

「知り合いから貰ったんだけどよ、ワシ歯がなくてなぁ!ハッハッハッ」

またとある日には、

「よう坊主、アイス食うぞ」

「泉さん、俺帰りに友達とアイス食ってきたんだけど…」

「なぁにぃ?いいから食え!ワシ1人じゃ食べ切れん」

「…いや、じゃあなんで2つ持ってんの…」

「溶ける前に食わなならんぞ、はよせぇ」

「…はいはい」

俺は荷物を置くと階段に腰掛けた。
アイスを受け取り、ひとくち齧ってからいつもじいさんが座っている椅子に目をやる。

「じいさん、その椅子って自前?」

「おうよ、座り心地良いぞ」

年季は入っているが、確かに座布団が敷かれ背もたれまで付いている椅子は快適そうだ。

「へぇ、俺にも座ら…」

「坊主にゃまだ早い。ワシが死んだら坊主が好きに使っていいぞ。まだまだ先やろうがのう」

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ピピピッピピピッ

けたたましいアラーム音で意識が戻された。
いつの間にかカーテンの隙間から日差しが差し込んでいる。

「…もう朝か」

昨夜、風呂に入ったあたりからあまり記憶がない。
ぼうっとする頭のまま身支度を済ませ学校へ向かう。

キーンコーンカーンコーン

こんなに1日が早く過ぎたことは、今まであっただろうか。
1時間ごとに鳴るはずのチャイムも、下校を知らせる1回きりしかまともに聞こえなかった。

「…くん、タカハシくん!」

「…おっ!と…マツイさんか、どうしたの」

「それはこっちのセリフだよ。タカハシくん、どうしたの?今日ずっと元気無かったし、心ここに在らずって感じで心配したよ」

「あぁごめん、ちょっと色々あってさ…。今は上手く話せる気がしないんだ。また今度聞いてもらえる…?」

「もちろんだよ。話したいって思ってくれただけでも嬉しいから。私はいつまででも待つよ。…だから、早く元気になってね」

マツイさんが教室を出た後も、しばらくは教室に残っていた。
やがて学校中が静まり返り、遠くからピアノの音色が聞こえてきた頃俺はようやく教室を後にした。

家の近くにあるコンビニに寄り、柔らかい饅頭を2つ購入する。

そしてマンションの部屋へ続く階段の脇にポツンと置かれている椅子に、初めて座った。

「…じいさん、これ。いつも貰ってばっかだから今日は俺が渡す番だよ。歯が無いって言ってたからとびきり柔らかい饅頭だ。フッ、コンビニで買うと意外と高いんだから、味わって食べてくれよ」

『       』

「…じいさん、肺が悪かったんだな。早速座らせてもらってるけど、この椅子なかなかの座り心地だよ。ちょっとじいさんの匂いもする。…正直言って少し臭い。ハハッ、冗談だよ。じいさんが俺に声を掛けてくれたのはちょうど1年前くらいだっけ?元々面識はあったけど、あんまり話すことなかったよな」

『       』

「俺いつもこんなに喋らないだろ?自分でも思ってるよ、今日が今までで1番話してるって。でも本当はもっとじいさんと色々話したかったな。俺の家族のことも、好きな子が出来たことも。…何もかもじいさんのおかげなんだ。あんたが俺に何度も声を掛けて、いつも元気な姿を見せてくれてたから。っ、だから俺は…油断、してたのかもしれない。じいさんに話したい事を後回しにして、この椅子に座るのももっと後のことだって…!うぅっ…」

『       』

目から大粒の涙が溢れた。
嗚咽が止まらず、目からも鼻からも液体は流れ続ける。
顔全体がびしゃびしゃになった。

やがて涙が渇き、落ち着いてから再び口を開く。

「……じいさん、俺気付いたことがあるよ。一生分の涙が流れたって10年くらい前に思ったことがあるんだ。だけど今日、その時と同じくらい…いや、それ以上かもしれない。こんな泣き顔を晒すつもりはなかったんだ。じいさんの前では、いつも自然と笑顔になれてたから」

『       』

「俺さ、母さんと父さんと、兄ちゃんの4人暮らしだったんだ。だけど兄ちゃんが死んで、親の仲が悪くなって。…いつの間にか離婚してた。だから父さんのこともあんまり覚えてないし、そもそも父さんがどういう立場の人間なのかもよく分かってなかった。そんな時じいさんが気に掛けてくれて他愛のない話をして。…俺、じいさんのことは本物の“じいちゃん”のように思ってたし、父さんのようにも思ってた。……一方的かもしれないけど、俺はじいさんのこと、“家族”だと思ってるよ。今までも、これから先もずっと。じいさんが俺のことどう思ってるのか知ることが出来ないのが…残念だけどね」

『       』

ここまで話した後、手で握りしめていた饅頭をひとつ開け、口に放り込んだ。

「ちょっと形おかしくなったけど、これじいさんの分な。椅子に置いとくから、あとでこっそり食べてくれ。またな、“じいちゃん”」

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その日の夜、夢を見た。

じいさんがいつもの椅子に座っており、俺があげた饅頭を食べている。

『こりゃあウマい!ワシが坊主くらいの時は、こんなもん無かったなぁ』

「そんなに好きならもっといっぱい買ってくるよ」

『いや、いいんだ。老いぼれジジイにはひとつで十分じゃ』

「ハハッ、自分で言うのかよ」

『のう……“ユウト”。ワシもお前さんの事は、家族と思うとるぞ。ジジイの椅子で良けりゃ、いつでも座りに来い』

「じ、じい、ちゃん…。俺、俺は…」

『ほれほれ、泣くな泣くな。ワシはそろそろ行かなならん』

「…行くって、どこに」

『久々に、婆さんの顔でも見に行こうかと思ってのう。散歩のついでじゃ』

そう言って笑うじいちゃんを見ていると、何となく分かってしまった。
たとえ夢の中であっても、もう2度と会えないということを。

『おう坊主、饅頭ウマかったぞ!御馳走さん!』

ほんの少し身体を傾け、こちらに向かってそう言うと、また背を向けた。
腰を曲げてとぼとぼと歩いていく。

その後ろ姿が見えなくなるまで、俺はずっとその場に立っていた。
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ピピピッピピピッ

今日もまた、アラームの音で目が覚める。
ぼんやりした頭でいつも通り身支度を済ませると、玄関の扉を開けた。

階段を降り、何気なく椅子に目を向ける。

「……!」

そこには、封を切られている饅頭の袋が置かれていた。
慌てて中身を確認する。

「…ハハッ、この汚い食べ方…。やっぱり来てくれてたのか。……じいちゃん」

青い空を見上げ、もう一度声をかける。

「そんなに好きならまた買ってきてやるよ。老いぼれジジイも、たまには食べたくなるだろ?」

制服の裾で目元を押さえ、いつもの通学路へ一歩踏み出した。








































10/7/2024, 1:40:30 PM