言葉というものは実に不思議なものである。
物知りではない自分でもそう思う事が多々ある。
例えば〝考える〟という言葉は〝勘が得る〟という分解が出来たりする。
〝ナルシズム〟は〝成る沈む〟
〝すずしい〟二枚目色男が嫌味を吐けば〝ズズしい〟顔に思えたりする。(※本当はズウズウしいなのだが。)
そうした言葉たちであるが其れ等は残念ながら神秘的ではありながらも神秘ではない。本物の神秘には気が遠くなるほど程遠い所謂 ... そうした神や仏の崇高な念から見れば言葉 ... 人間の言葉また理屈理論なんてものはサル知恵に等しいのであろうと自分は感じるのである。勘汁が垂れる。トホホ。
祈りとは意乗りであり意の理であり猪離でもあるのだと自分は自分勝手に認識していたりする。
〝猪〟は荒らすというような意味も含まれているのである。
言葉の話とは変わるが〝合掌〟という仕草はこれまた不思議な効果を齎してくれるのである。
仏教では左手が自分で右手が仏様ということであるらしいが素直に成れて黙りこくり人の話を敵意を持たずに ... (※所謂、反論準備を心に懐かずに) ... 耳を傾ける、聴く事が出来るように成れるのである。
猪 ... 離 ... 荒らす心から離れられるのである。
なんてね ... 20年くらい前まではこういうようなことをよく考えたりしてたけど、まぁもぅどぉでもいいよ。この世は俺はもうぜんぶあきらめてるから。うんそう。死ぬ迄のひまつぶしというか、砂丘にバス停を置いて決して来ないバスを待ちながら時間が止まるのを待ってるだけだから。
1/7/2024, 11:32:12 PM