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「ほんとさいやく」

頭でっかちな昔の僕は内心ぷんすかしていた。まず読み方を間違えているクラスメイトの発言。この世の最も悪いことなんて人が正確に分かるわけないのに。だから僕は最悪と表現を避けてきたというのに。昔の僕はそんなことでちっちゃく怒っていた。

今はというと、むしろその発言の軽薄さ以外のものを考えるようになった。「さいやく」。たぶん人から聴こえた音のまま言っているのだろう。それが今の僕には皮肉抜きに面白く感じた。

当たり前だが言葉は辞書的な意味付けをされる前から存在する。それは各々がその場その場でやり取りする為の道具としての言葉だ。そこではとにかく通じることが第一でそれが本質でそれが全てだ。

クラスメイトの間違いはその領域に回帰しているようにも捉えられる。赤ちゃんが言語を獲得する方法と同じで他人の音をとりあえず真似ている。そこで重要なのは音のだいたいの違いを覚えることであって厳密な意味の理解ではない。だからこそ、その領域の言葉は辞書から解放された生の道具のように思えてどこか魅力的だと感じた。

そもそも理念上の究極の悪はない。僕がこだわっていた最も悪いという辞書的な意味、いわゆる文字通りの意味についても善悪の観念を調べるようになってからそう思うようになった。ニヒリズムよろしくそこの意味合いに強くこだわる程の価値が無いと。だからこそもっと自由に意味を持たせていいと。

すごい悪いと思ったから最悪。感情の発露はそれぐらい簡潔でいい。もちろん学ぶことは大切で定義を把握することにも価値はある。だけどそれ以上に他人そして自分自身へのコミュニケーションを成り立たせることに意義を感じる。それさえできれば充分だ。頭でっかちな僕は自分への戒めとしてもそう思うようになった。

…ここまで書いておいてクラスメイトが言っていたのがほんとは最悪じゃなくて災厄だったらどうしようか。もしそうだったらそれはさいやくだ。

6/7/2024, 12:02:36 AM