千紘

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欲望
「欲望(よくぼう)」とは、何かに対する「不足」を感じ、それを満たそうと強く望む心や、欲しいと思う気持ちのことです。三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)のような本能的なものから、金銭欲や承認欲求など社会的なものまで、人を動かす基本的な心理を指します。


「うーん…」

自宅と学校から2駅離れた町の図書館の隅っこ、本棚に囲われて、少し奥まった場所。長椅子で辞書を広げてつい声を出して唸ってしまった。顔を上げ、キョロキョロ見渡すが、今日は人も少なく誰にも聞かれていなかったようだ。

ホッとため息を付いたのも束の間、突然肩に手を置かれた。

「ひゃっ!」

思わず再び大きな声が出て、それを誰かの大きな手がふさいだ。

「あっぶねー」

「は、羽島くん」

「あんま大きな声出すなよ。びっくりするだろ」

「いつの間に、そこまで来たの!?さっき居なかったじゃない!」

同じクラスの男の子。彼は髪も明るく染めてて、運動も出来て友だちも多い。こんな図書館に来るイメージもないのに(偏見だけど)、図書館の常連である。

初めてここで出会ったときは、中学生や大学生の勉強として、テーブルスペースが埋まっていて、この奥まった長椅子を、たまたま居合わせた羽島くんと共有した。
それ以来、図書館に来るとここはお互い定位置になっている。
棚に並んでいる本も、小難しい歴史書ばかりなので、本棚に隠れて見えないこの長椅子のスペースは穴場なのだ。

「今、本選んでて、来たとこ」

当たり前のように隣に座る羽島くん。少し、ソワソワした。


「…難しい顔して、何読んでるかと思ってたら…辞書…」

少し間を空けて、羽島くんは吹き出すように笑った。
頭2つ分くらい背の高い羽島くんから、私の開いてる辞書が丸見えで、なんだか恥ずかしい。

「わ、笑わないで!」

「ごめん、調べ物か?」

「う、うん、ちょっとね」

流石に、調べていた単語は言えずに濁す。
辞書の、「よ」から始まる単語が並んだページ。
調べるふりをして、単語を指でなぞる。

「ふーん、かして。辞書なんて、奥ゆかしいことしてるよな」

見た目と言葉使いが一致してなくて、ちょっとおかしい。
今度は私が笑う番だ。

「そう?結構、面白いよ」

「いいな、そういうの。何調べてたの?」

「え、う、内緒」

「…言えないこと?なんだろう、欲情とか?」

その太くて長い指で辞書の字をなぞりながら、ニヤニヤしながら聞いてくる羽島くん。
やっぱり高校生男子、選ぶ単語が…。

「ち、違うよ!よ、欲望ってね。尽きないなぁと思って。改めて調べてみてた」

「欲望かぁ。成績優秀で、大学推薦も決まってる宮野さんにどんな欲望があるの?」

「い、言えないよ…」

聞かれて、私は答えられずにいた。
耳から落ちた髪をかき上げて、ふいっと顔を反らす。
卒業まであと数カ月。
卒業すれば、羽島くんとここで会うこともきっと無くなるんだろう。

家庭の事情で、羽島くんは進学せず、知り合いの会社に就職をすると聞いた。
会えなくなるのが寂しいって、そればかり考えてるなんて…羽島くんには言えそうにない。

しばらくの沈黙、ちょっと気まずくなって羽島くんの方を見る。羽島くんは、本を開いて読んでいた。
『日本一短い手紙』という、どこかの誰かのひと言がまとめられている本だった。

「本当は、君の事が大好きなんだ。恥ずかしいから、大きい声じゃ言わないけどね。」

「え!?」

突然、羽島くんが、言った言葉に私は見てわかるくらい動揺してる。

「これ、15歳の女の子が書いたんだって。誰を思って書いたんだろな」

「…好きな人…かな?」

私の動揺は、きっと隠せていない。
じっとこっちを見てる羽島くん。
私は、視線を受けつつも顔を上げられず、羽島くんの手元の本を見ていた。

「俺も、叶えたい欲望あるんだ。」

「そ、そうなの…?」

「うん」

「…なに?」

「…宮野さんと、卒業しても会いたい。なぁ、俺たち付き合ってみない?」


驚いて、固まった私に手を重ね、羽島くんは不敵に笑った。






3/1/2026, 12:58:39 PM