地平線てのは、どうしてこうくっきりとその境がみえるんだろう。
遮るものがないというだけで、地球の輪郭はいとも容易く僕らの前にあらわれる。
僕が生まれ育った、空をつくようなビルばっかりの都会じゃまず見られないものだから、僕は今はじめてそれを目の前にして、何だか生まれたての赤ん坊のような気分にさえなった。
もちろん赤ん坊の頃の記憶なんてさらさらない。けれど、お産室の汗と血と、風と土と母親の匂い、それらが入り雑じる地上の空気をはじめて吸い込んだほやほやの赤ん坊は、きっとこんな気持ちだったのに違いない。そう思えた。
「そんなに一生懸命に、何みてるの?」
何の情緒もなく、母さんが話しかけてくる。小屋みたいなサービスエリアから戻ってきて、僕の立つ展望台まで登ってきたのだ。
「ほーんと、何もないところねぇ。」
それは母さんのいう通りだった。僕たちのこれからの新天地は、神様が緑の絵の具だけを蒔いたみたいな田畑ばかりの、見事な地平線以外は本当に何もない土地だった。
ああでも、地平線と空がくっつきそうなところに、小さな川が流れているような気もする。その狭間から、何かが産まれるようにキラキラと光っているから。
「何もない。」
僕は呟いた。別に、母さんに向かっていったわけでもなく、かといって独り言のつもりもなかったけれど。
「何もないよ。」
僕がもう一度呟くと、母さんは穏やかに応えた。
「そうか。」
僕と同じ方向へ目線を向けたまま、きっと、その目尻はやさしく緩んでいるのだと思った。
「楓は『何もない』をみてるんだ。」
小鳥のような風の音と混ざって、何だか、嬉しそうな声だった。
「大切なことだね。」
背後から父さんの声が聞こえる。僕たちを呼んでいた。父さんはここに上がってくる気はなさそうだ。引っ越しの荷物運びに慣れない土地の運転で、疲れているのだ。
「今晩は父さんに、ビールだね。」
母さんは笑って、展望台から降りていった。僕も母さんの背中に続こうとして、また、地平線のほうを振り返った。そっと目を閉じてみる。
夏のわりには少し冷たい風を感じる。耳を抜けて、僕の体内に染み渡る。何もない、緑と水と、光の匂い。
僕らはこれから、この大地に根を張って生きていくのだ。地平線を彩るこの緑のように。
抜けるような青空と白い雲、小さくなった母さんの背中を、追いかけた。
5/4/2023, 11:24:50 AM