中宮雷火

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【人の名前】

改札を抜けると、先生が居た。
先生はにこやかに微笑んで手招きをした。
「先生、お久しぶりです。」
私は菓子折りを鞄から出し、先生に差し出した。
「北海道のお土産です。現地では有名なお菓子だそうです。ぜひ食べてください」
「ありがとう。いやぁ、北海道に行ってきたのかい。あそこは良いところだろう。おいしく頂くよ」

私達は暫く無言で歩いたが、とうとう私の方から話を切り出した。
「先生、もう行ってしまうのですか」
「ああ、そうだよ。ずいぶん長い間、この土地にはお世話になったからね」
先生は寂しそうに言った。
「寂しいです、先生と離れるのは。」
しかし、私には他の人とは違う寂しさがあった。

私は孤児だった。
赤子として生まれてすぐに捨てられたらしい。
もちろん、名前などつけてもらう間も無かった。
さらに両親は、私を孤児院の前ではなく人気のない路地裏に捨てたのだ。
きっと私の両親の性格は腐ったバナナそのものだったのだろう。
そういうわけで、生まれて早々命の危機に瀕した私を救ってくれたのが、今隣を一緒に歩いている先生なのだ。
たまたま路地裏を通った先生は、捨てられた私を拾って直ぐに孤児院へ届けてくれたのだ。
そして、孤児院の院長をしていた先生が私達の面倒をみてくれることになったのだ。
さらに、私のような孤児に名前もつけてくれた。
私の名前は鞠子。
そう先生が名付けてくれた。
私はこの瞬間、はじめて(本当の意味で)人になれたのだろう。

「なぜ、行ってしまうのですか」
「もう、私は十分だと思った。すべき事は全てやった」
「そうですか」
「…」
「…」
「…」

再びの沈黙の後、今度は先生から話を切り出してきた。
「鞠子、君は今社労士の弟子なんだね。」
「はい、難しい仕事で大変ですけど」
「君は立派だよ、いつか必ず夢を叶えられるよ」
「そうですかね」
「ああ、そうだよ。私は思うんだよ、夢を叶える人と叶えられない人の違いについて」
「なんですか?」
「夢を叶える人の目は本気なんだ。キリッとしている。戦士といえばいいのだろうか、そんな目だ。対して、夢を叶えられない人とはどんな人だと思う?」
「……目がキリッとしていない人、ですか」
「あながち間違っていない。だけど、私は別のところに理由があると思うんだよ」
「と、いうと…?」
「端的に言うと、堕落した人だ。」
先生は、たまにはっとしたことを言う。
「もっと簡単に言おう、諦め癖のある人間だ。すぐ諦めるんだ。テストが難しいときいて、始まってもいないのにすぐ諦める人。私は、そんな人は夢を叶えられないと思っている。いや、夢を叶えない人間と言うべきだろうか」
先生は、本質を見抜いてくる。
「君は違う。目に炎が宿っている。信念がある。こういう人は、挫折はするだろうが諦めはしない。」

やがて、踏切が見えてきた。
そろそろ別れだ。
「先生、そろそろ…」
「ああ、分かってる。これが最後だね。」
先生はこちらを振り向いて言った。
「すまないね。せっかくお土産をくれたというのに、何も渡すものが無いんだ」
「いえ、お気になさらないでください。私はもう、十分嬉しいですから」

私は立ち止まった。先生は踏切を渡った。
「鞠子、辛いこともあるだろう。挫折は付き物だ。ただ、君は強い。立ち直ることができる。それなら、私はもう何も心配することは無いよ。」
踏切の警報音が鳴り始めた。
ああ、もう会えないのか。
私は、何か言いたいと思った。
言わなければ、と思った。
「先生、お元気で。」
遮断機が降りはじめて、電車がガタンゴトンと迫ってきた。
「鞠子、楽しかったよ」
電車がやってきた。
「それじゃあ、グッド・バイ!」

電車が物凄いスピードで通った。
もう先生は居なかった。


次の日の朝、先生の訃報が届いた。
悲しくはなかった。
ただ、先生のいない世界が妙に色褪せて見えるようになった。

7/20/2024, 9:54:16 PM