『物憂げな空』
「おい、起きろ!今日は空を畳むぞ」
朝、そんな親方のぶっきらぼうな声で目が覚めた。
ひどく項垂れた空。
おばあちゃん家の物置の、古びたカーテンみたいな、お世辞にも良いとは言えないくすんだ色。
「……これ、だいぶ溜まってますね」
僕は寝ぼけ眼で空を指さした。
南の窓から向かってやや東、高度はだいたい40m。オレンジ色の屋根の家の上あたりに、黒いもやが淀んでいる。
「あれ、多分ルーカスさんのかな。まだ馴染んでない。きっと、昨夜のうちに『吸い上げられた』んでしょうね」
空は、人々の憂鬱を吸い込む。
ぽつりと沈んだ重く暗い心を、空が引き受けてくれるのだ。おかげで、人々はみんな穏やかで、いつも微笑みに溢れてる。
「そうだな。……にしても、今回は短かった。前回の『洗濯』から、たった4ヶ月しか持たなかったぞ」
けれども、空にだって限界がある。僕らの言う「空」とは、せいぜい大気圏までのことだ。デカルトって学者が言ってたんだけど、その先にある宇宙は「エーテル」という気体で満ち満ちていて、どうやらそれは僕らの心とひどく相性が悪いらしい。「明るいもの」しか吸い込まないんだってさ。……まあ、全部親方の受け売りだけどね。
「明日にもなれば、きっとエーテルが垂れてくる。エーテルに機嫌を吸い取られる前に、さっさと行くぞ」
エーテルに晒されれば、僕らの幸せは吸い奪われる。「空」というフィルターは、僕らの憂鬱を吸い込むだけでなく、僕らの幸せをも守ってくれているのだ。
「はーい、親方」
僕らは仕事道具——といっても、木製の梯子と手のひらサイズの有線通信機、その他いくつかの細々とした道具だけだけれど——を入れた革製リュックを背負って、街へ出かけた。3食分の薄いパンを持って。
—————————
「よっ、と……。危ない、馬糞かあ。掃除屋は……あそこで話してるのか」
街には、人々のため息がこれでもかというほどに澱み、蔓延っていた。
「まったく、もうやってらんねえぜ。いつも見られるのは道ばかりだ。だーれも、俺のことなんて見ちゃいねえさ」
いつもなら「やあ、今日は大漁大漁!」なんて笑っている痩せこけた掃除屋も、地べたに座り込んで悪態をついていた。手垢の染みた愛用の箒を乱雑に投げ出していて、あんなに愉快な人でも、やっぱり「空」がダメになるとダメになってしまうようだ。
「こら、よそ見をするな。あんな言葉にいちいち耳を貸すんじゃない。こっちまで気が重くなっちまうだろ」
親方の叱声に、僕は慌てて前を向いた。
「すみません、親方」
—————————
日が落ち、街から色が失われていくのと競争するようにして、僕らは街の東端にある高台の時計塔を目指した。ようやく辿り着いた時には、もうすっかり夜は更けていて、パンも1枚になっていた。ここは、街で一番「空」が低い場所だ。
道中、ルーカスさんの家を通りかかったけど、案の定ルーカスさんは愚痴を吐いていた。夫が洗濯物の一つも畳まないー、とか何とか。
「俺は準備をするから、お前は向こうで空の『ヒビ割れ』がないか確認しておけ」
「わかりました」
いつも通り、方位磁針と照らし合わせながら空を見る。僕らは訓練を受けているから夜目が効くけど、みんなは見えないだろうな。人々の住まいはやや南に偏っているから、やっぱりそのあたりには一層重いモヤのダマが溜まっている。
「星は……東に5個、北東に3個、北に1個だけか。8割方なくなってるね」
モヤは不透明だ。溜まりすぎれば、星の光さえ遮断してしまう。僕が好きな蠍座の心臓も、今は厚い憂鬱の向こう側に隠されていた。
「……真っ暗だな」
エーテルは「明るいもの」を吸い取ると言ったけれど、それは精神的な輝きだけでなく、物理的な光をも含んでいる。僕らが夜目に頼るのもそれが理由だ。
この「洗濯」が行われる夜には、誰もが午後のうちに入浴を済ませ、夕暮れと共に深い眠りにつく。エーテルに餌を撒かないように。大切な幸せを、奪われないように。
「静かだなあ」
今、この街に灯る明かりは一つもない。
幼いころ、親方が読んでくれた本にこんな一節があった。
『真っ暗な闇の中に、ぽつんぽつんと灯っている明かりの一つ一つに、誰かの人生があり、誰かの夢がある』
——だったら、一つの灯りも許されないこの夜には、一つの夢もありはしないのかな、なんて思う。
「……って、ダメだダメだ。エーテルに引っ張られちゃダメだ」
そんな感傷を振り払うように、冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込んだ。
そうだ。あの本には続きがあったはずだ。
『本当に大切なものは、目に見えない』
ああ、そうだ。そうなんだ。
見えないからって、無くなったわけじゃないんだ。
空がこんなに濁って、街の灯りが消えたって、僕らの幸せはたしかにそこにある。ただ、今は空が代わりに引き受けてくれているだけなんだ。
幸せか不幸せか。それは、きっと見方が違うだけなんだ。きっと、気づけていないだけなんだ。……うん、きっと。
「よし、梯子を空にかけろ!」
親方の声が、凍てついた静寂を切り裂いた。
「は、はいっ!」
僕は急いで木製の梯子を塔の壁面に立てかけた。リュックから有線通信機を取り出し、長いコードを親方の腰に繋ぐ。かつて無線の方が便利ではないかと尋ねたが、磁場が乱れるこの場所では、有線の細い糸だけが、僕らを繋ぎ止める唯一の命綱なのだという。
「親方、気をつけて!エーテルが漏れ出してるかもしれません。ほら、あれ」
示した空には、夜の闇よりもさらに深い黒が、濡れたコンクリートのような光沢を持って滲んでいた。雨の日のカラスの羽の色。すべてを無に帰す、無限の黒だ。
「ああ、急ぐぞ!」
親方は慣れた足取りで梯子を登り、雲のすぐ下、空の「継ぎ目」に手をかけた。
見上げれば、空はもう限界だった。ルーカスさんの憂鬱も、掃除屋の投げやりな言葉も、すべてが作り途中のかさぶたのように、空にへばりついている。
【一時的に飽きちゃいました。また後で続き書きます!絶対!】
2/25/2026, 3:09:35 PM