遠くの空へ

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「なあ」

背の低い彼はぽつりと呟いた。
呼びかけただけなのに、彼は、もう全て言いきったようなつもりに見える。
しかしもちろん、彼の言いたかったことは何も伝わっていないので、僕は彼の顔を真っ直ぐ見続けた。

彼は、僕の顔を見ず、窓の外を見ている。
続きを言うつもりは、もうないのだろうか。
僕は見つめる以外に先を促す方法が思い浮かばず、再度手元に目を落とした。

フィルムケースの中から、今月分のフィルムを抜き取る。スライドビューアーのリールにそっと取り付け、中央にあいた穴を、本体から突きでた突起に押し込んだ。
カチッという音を合図に、彼からの視線を感じる。
僕は彼の横たわるベッドへ向かいながら、話した。

「家での写真が多いよ。
今月は、雨が多かったから……」

彼は低く喉を鳴らす。

「いいな。自分の家の間取りだって曖昧になってたとこなんだ」

遠くからナースコールの音が響いた。
廊下では、看護師の行き来が途絶えることなく続いている。真っ白い病室の中で、唯一暗いのは窓の外だけである。今日の空は一面重い色で、今にも降り出してきそうなのだ。
……僕は会話を続ける。

「この間から思ってたんだけど、漫画とか、本とか、そういうのいらないの?
なんだって持ってこれるよ。頼んでくれれば」

彼に無骨なビューアーを手渡す。
元々細く白い手は、ますます頼りなくなった感じがした。
彼は僕の顔を涼しく見つめる。

「そんなにスキじゃないんだ」

その言葉を聞き届けてしまえば、僕は他になにも言えなくなってしまった。
ベッドサイドのスツールに腰掛ける。
スツールは、面会人の座り心地よりコンパクトさを優先したのがよくわかるような代物だった。
それでも、彼を包む布団とマットレス、枕は、非常に快適そうである。

この入院生活そのものを見るとそうでもないが、このベッドだけに注視すると……彼が幸せ者に思えた。

彼は、瓶いっぱいの消毒液に浸され、そのまま乾燥させたようなシーツの上。
ビューアーを覗き込み、思う存分のんびりと写真を観察している。
満足いくまで眺めると、カチッとボタンを押し込んで、次の写真を見つめた。

その合間合間に、彼が呟く。
僕はそれを取り逃さないようよく聞き、できる限り答えた。

「10日のあたりにイヤな事でもあったのか?
空ばっかだ」

今回の質問は幸運な事に、答えるのが簡単だ。

「たまには、空も見たいかなと思って撮っただけ。その日は晴れてたしね。心配いらないよ」

彼は一瞬黙った後、淡白に返事をした。

「……そっか」

今回の返事は、珍しいくらいのしょっぱさである。
僕は思わず考えた。
彼はどんな応答を望んでいたのだろう。
僕にイヤな事があって、今も悩んでいるといった類のものだろうか?
しかし、彼は昔から、そういう厄介事に巻き込まれるのを嫌うタチだった。
結局、皆目見当もつかなかったから、僕はぼーっと、彼を眺め続ける。

人間関係の厄介事を嫌う彼が、こんな扱いづらいアナログマシーンを扱うのか。
彼は携帯を解約してしまったからだ。
使用頻度は下がるだろうし、必要もないから、と。

そんな彼にすこしでも娯楽を、と、僕らはこんな事をしている。

彼は突然呟いた。

「終わったよ。
いい写真だった……今月もな」

僕はその言葉を合図にして、スツールから立ち上がる。
彼の手からビューアーを抜き取り、サイドテーブルの貴重品入れへ、慎重に置いた。


「いい写真だ!……今月も変わらず!」

現像した彼の写真を渡すと、そう言われる。
僕は自宅の玄関口にもたれて、背の高い彼に笑顔を向けた。

「同じような感想言うね。さすが兄弟だ」

言った途端、彼が眉をしかめる。
さらに、わさわざ写真をポケットに入れてまで腕組みをした。
芝居がかっている。

「少なくともボクの方が、兄ちゃんよりセンスいい感想を言ってるハズだ!」

彼は、背の低いあの兄を心から愛しているのだ。
僕はふたりと、小さな頃から友人だったので、そんな事はよくよく知っている。
だから、僕が彼らそれぞれの代わりに、彼らそれぞれへ、様子を伝言していた。

背の高い彼は、不意に僕の庭先を見つめる。
その表情が物憂げと言えるのか、それとも、何か思い詰めた様子と言うのか。
見当がつくより先に、彼は言った。

「……いつもゴメン!
兄ちゃんはボクの兄ちゃんなのに、任せっきりだ」

僕は気にしていない。どちらにせよ……つまり彼が忙しかろうが忙しくなかろうが、僕は彼の兄にたくさん会いに行くつもりだった。
それに、もし僕も忙しくなって、手が回らなくなったとしても、だ。
彼の兄とすこしでも長く過ごしたい他のひとたちに任せられるだろう。

彼の兄は人気者ではなかったが、彼の兄を覚えていて、まだ話していたいひとは何人だっていた。

それでも、その弟である彼は僕の目を真っ直ぐ見る。
そうして、あまり幸せそうではない笑顔をつくり、僕に告げた。

「仕事がもう少し落ち着いたら、絶対埋め合わせするよ!兄ちゃんともね」

この兄弟は本当に似たもの同士である。
兄弟そろって色んなひとから好かれていた。
彼らがお互いを大切にし続けているからだ。


手を振り返す。すると、背の高い彼ははしゃいだ様子でニッコリ笑った。
先週約束した“埋め合わせ”は、思ったよりもずっと早く訪れたのだ。

分厚い暑気が体にのしかかって、非常に過ごしにくいが、それでも素晴らしい一日になる予感がする。
彼と過ごす日は、子供の頃から常にそうだったからだ。

彼が座っているのは、石造りの噴水を囲むように設置された、横倒しの木を模すベンチである。
僕はのしのし歩み寄り、その隣に腰掛けた。

ハンカチをポケットから抜き取り、顔中の汗を拭く。

「楽しみすぎる!待ちきれないッ!こんなにワクワクするのは久しぶりだ!
でも、おまえが休むのを待つのは大歓迎だ!」

彼は、太陽顔負けの明るい笑顔を発した。
しかし、太陽よりずっと爽やかで涼しいので、僕は扇風機に当たったような心地を味わう。
僕はタオルの奥からボソボソ呟いた。

「ありがとう」
「気にしないで、トモダチ!」

底のない青い空に、伸びやかな雲がどっしり構えている。太陽は光で人間の肌を刺し、肌はその刺し傷から、汗をダラダラ流した。

僕はハンカチを畳んで、ポケットに滑り込ませる。最後に、ゆっくり立ち上がった。

「行こう」

それから僕らは電車に揺られる。
背の高い彼は、終始ちょっと体を捻り、車窓の向こうを見ていた。
彼は、海の潮のようにゆっくり流れる遠くより、川の水のように、素早く消えていく近景を好んでいる。

仕事で常用している車の景色と似ているからだろう。彼は、馴染みのあるものに安心するひとだ。
特に慣れない瞬間ではそうだった。

とはいえ僕だって、向かい合わせになった窓の外を見ている。ルーティーンを大事にするのはお互い様だと思う。
数年前、彼ら兄弟の家でお泊まり会をした日も。
僕と背の高い彼は「朝起きてすぐ歯を磨くか、食べてから磨くか」で言い争った。
彼は「起きてすぐ磨く派」として「寝ている間に口内環境は汚染される!それを磨かずに朝食なんて、菌を食べてるのと同じだ!」と主張する。
僕は「食べてから磨く派」として「口をゆすいでから食べればいい。食事の後の汚れは放置するの?それとも朝のうちに二回も歯を磨くの?」と反論した。

彼は「もちろん二回だ!」と言い切り、僕は強く驚愕したのを覚えている。
だって、普通そんなに磨くひとはいないだろう。
彼らの家では、歯磨き粉の減りが早いに違いない、と当時の僕は思った。
この論争の終わりはなんだっただろう。
確か、彼の兄が起きてきたからだ。
歯を磨くか、パンを焼き始めるか、どちらかを賭け合って、ふたりで見守った。

彼はフラフラ階段を降りてきて、ソファに倒れ込む。結局彼はなんにもせずに、また夢の中へ戻ったのだ。

ふと、電車のブレーキに体が傾く。
僕は、ようやく前に向き直った背の高い彼の肩を叩き、シートから立ち上がった。

僕らの足はバス停へ向かう。
駅の目と鼻の先にあるから、僕はそこまで汗だくにならずに済むわけだが、それでも暑いものは暑い。
彼の普通よりは少し大きい影に隠れて、激しい日差しと騒々しい人混みの中を歩いた。

日除けが設けられた──素晴らしい──バス停に座って、背の高い彼は一言こう言う。

「兄ちゃんってなかなか、オープンになれないんだ」

あまりにも突然だった。
もしかして彼は、電車に揺られながら、ずっと兄を思い返していたのだろうか。
そう思いついた途端、僕はそれ以外ありえないと気づいた。だって、目の前の彼にとって今日は、たったひとりの兄を見舞う初めての日なのだ。

僕は、なんとか受け答えを捻り出した。

「……昔から言ってたね。
兄ちゃんはひみつ主義だ、とか色々」

彼の点頭は静かで、控えめに見える。それはとても珍しいことだ。

「そうだ。昔からそうなんだ!
でも、幸いな事に……ボクは兄ちゃんとそれより昔からいっしょにいた!
だって、ボクの兄ちゃんだからね」

僕も静かに頷く。
すると、彼はなんでか、とても優しく微笑んだ。

「多分、兄ちゃんは今頃、おまえとどう向き合えばいいか考えてる!
兄ちゃんはああ見えて、くよくよする時があるんだ。ソク断ソッ決!って時もあるけど。
だから、兄ちゃんとおまえは大丈夫だよ」

バスが僕らの前にゆっくり停車する。


“兄ちゃんとおまえは大丈夫だよ”。
確かに、僕と彼は、そこまで仲良くなかった。背の高い彼と比べると。
特に最近は。
特に、彼が入院する事になって、僕が彼の病室へ訪れるようになってからは。

僕はただ、自分の弱っている姿を昔からの友人に見られるのが、ちょっと嫌なだけだと思っていた。
でもそうじゃなく彼は、僕と、もっと距離を詰めようか、どうしようかって悩んでいたんだ。

バスの急カーブに、僕の体は左へ左へ押さえつけられる。しかし、なんとも思わなかった。
不快に感じられるほど、脳のリソースがない。

僕の頭はただがむしゃらに、背の低い彼との思い出を引っ張りあげて懐かしみ、投げ出して、散らかしている。

彼はずっと僕と距離を取り続けていた。僕はそれを、彼のパーソナルスペースなんだと思って尊重してきた。
彼が彼の弟ともっと仲が良くても、僕と話すよりずっと楽しそうに話をしていても、僕をからかうよりもっと活き活きと、僕の友達をからかっても。
でもそれがなんでか僕はわからなかったから、考えるだけムダだと思っていたから気にしなかった。

でも僕は、本当はずっと気にしていたんだ。

鮮明に思い出せる。
背の低い彼が突然体調を崩したと聞いて、お見舞いに行こうとする間もなく入院したと知らされた時の事だ。
彼がどうすれば僕をみんなと同じように愛してくれるのか。僕はそれだけ考えて彼の病院に飛び込んだ。
彼のいる病棟に行き、看護師の背を追って、看護師と少しやり取りする彼の声を聞き、それから彼の隣のあのスツールに初めて座った。
あのスツールに初めて座ったのは僕だった。
しかし、彼はいつものなにも教えてくれない笑顔で、

「あいにくだけど、ココにはトロフィーも何もないんだ」

と呟いた。
あたかも僕が、それを目当てに君を大切にしているみたいに。
でも彼は“今頃、僕とどう向き合えばいいか考えてる”。信じたいと強く思った。

その時、軽い“ピンポーン”なんて音が頭のすぐ上で鳴り響く。
僕はハッとして、隣に座っているパピルスを見上げた。
彼がだめな僕の代わりにボタンを押してくれたに違いない。
彼は伸ばした腕をゆっくり直し、僕に「降りるぞ!」と笑いかけた。


僕と背の高い彼は、首から面会者の文字を下げ、背の低い彼の病室に向かう。
病棟の廊下には、ずっと手すりが続いていて、突き当たりにある窓からは穏やかな陽光が入っていた。
看護師は僕らの誰よりも前に立って、足早に病室に向かっていく。

だからすぐに、彼の病室へ着いた。
僕にとっては見知った、背の高い彼にとっては大きく、冷たいドアの前だ。
看護師はノックをしてから、取っ手を握る。
ドアが引かれていくほど、病室に貯まった豊かな陽光が廊下にみるみる漏れ出た。
僕は、声を潜める。

「大丈夫?」

背の高い彼はどう見ても緊張していたが、得意の虚勢を身にまとい、グッと頷いた。

背の高い彼が通れるくらいになった頃。彼ははやる気持ちを抑えられずにすぐさまそこへ飛び込んだ。

僕も後を追って、病室に踏み込む。看護師は一番後から入ってきて、扉を閉めた。

それでいて、一番先に声を上げたのは看護師だ。

「お見舞い、来てくださったわよ」

二番目は背の低い彼だ。
彼は彼のベッドを、ちょうどあのソファみたいになるよう起こして、ちょこんと座っている。
看護師に向かって笑顔を向けた。

「見えてるよ。お客さんがみえてるんだからな」

看護師は「はいはい」と軽くあしらう。僕はそのやりとりにまた頭をしっちゃかめっちゃかにしそうだった。
そんな事はつゆ知らず、彼女は去り際、僕らに明るく事を伝える。

「なにかあったら、ナースコールを押してくださいね!」

三番目は背の高い彼だった。
彼はドアが完全に閉まるより前に、倒れ込むような動きで、ベッドサイドに乗り出す。
背の低い彼は、特に驚いた様子も、動揺した様子もなく、ただ弟の高くにある顔を見上げた。
目尻をしりすぼみに縮め、いつもより穏やかな笑顔を見せている。
だからつまり、彼は感動していた。

弟はなぜか眉をしかめて「思ったより元気そうだ!」と言う。
言葉の切り方は乱暴で、思うに、彼の眼は涙でいっぱいだ。
その証拠に、兄はニヤニヤしながら「眼にゴミが入ってるみたいだな」と言う。

僕は、どうしようもなく居心地が悪かった。僕の周りから酸素がどんどん吸い取られていくような感じだ。

弟は突然心配そうな声を出す。

「ねえ、ホントに体調どうなんだ。平気なのか?」

兄はその問を聞き、まだニヤニヤしながら、軽快に答えた。

「まあな。安定してきてるみたいだし、そろそろ退院できると思うぜ」

僕はなんとも言えない感情を口内で噛み締める。
弟はほんとうに嬉しそうな笑顔を見せて、兄もそれを見て、少し安心していた。
僕はというと、もうそろそろふたりにしてあげるべきだと思い立って、つっけんどんに言い放つ。

「僕、トイレに行くよ」

弟と兄の返事を待つより先に、僕はドアから出た。

ドアを後ろ手に閉めると、自分に行き場がないことに気がつく。
戻るわけにもいかないし、トイレにこもるのも、病院だと思うと気が引ける。
しばらく、廊下の突き当たりにある窓の外を見ていることにする。

中庭には光が降り注いでいて、モンキチョウがパタパタ飛んでいた。
外ではこの陽光に攻撃性を感じるのに、冷房の効いた室内から眺めると、とんでもなく安らかに見える。

……僕は何度も他の事を考えようとした。
しかしどんな事を考えようと結局最後には、今兄弟はどんな話をしているのだろうという興味に、吸い取られる。

もしかすると、僕が出ていったので気まずい思いをしているかもしれない。
ふたりとも、呼び戻すかどうかに迷っているかもしれない。
それとも、僕の行動がちゃんと気遣いの末だと受け取られているだろうか。
僕は後者だといいのに、と思う。
なぜなら、僕は臆病だからだ。

やがては、モンキチョウが姿を消す。
廊下に響く、誰かの激しい咳と、ナースコール。歩き続ける看護師の足音や、タオルを詰んだ滑車の転がる音たちは、僕の背にぶつかるだけだ。
足音だけ聞いても、いくつだってある。
急いで駆けつけようとする看護師の足音、クタクタで、一歩一歩の重い看護師の足音。
足を引きずる患者の足音、点滴にかき消された足音……僕の方に近づいてくる足音がある事に、僕は気づく。
後ろを振り返るより先に、足音が止まった。

硬い手が僕の肩へ落ちる。
顔を上げ、見えたのは窓だ。窓には背の高い彼の顔が反射していた。

「覚えてる?
“オレさま”がさっきの“キサマ”みたいに出ていった時のこと」

彼女へ、初めて会いに行った時に違いない。
ずっと……ずっと、ずっと昔のことだ。
背の高い彼は、わざわざその時の彼を真似て話している。そうだ、彼も彼の兄に似て、ユーモラスな一面があるのだ。

「覚えてるよ。君は“そろそろトイレに行かなきゃいけないんだった!”って言って、窓を破って出てったんだ」
「そうだ!そのあと、オレさまどうしてたっけ?」
「……僕らを見てた?」
「そうッ!キサマにはそれが抜けていた!
だからそんなふうに……」

背の高い彼……パピルスは僕の肩をグルッと回し、僕と目を合わせる。

「悲しくなるんだ!もうッ!
兄ちゃんも、キサマも、ほんとうに世話が焼ける!さすがのオレさまもいっぱいいっぱいだよ!」

僕は、僕は絶句した。
窓には自分の背中と、彼の顔が映っている。
中庭は、彼の目にはどう見えるんだろうか。
それどころではないと思う。
僕は答えた。

「……ありがとう」

パピルスは一瞬、キョトンとする。
しかしゆっくり笑顔を咲かせ、次の瞬間には、身体中で僕にかぶりついた。

「いいよ!だってキサマはオレさまの親友だしッ!」

半ばプロレス技を混ぜたようなハグに、僕は図らず泣き声をあげそうになる。
それをゴクンと飲み込み、飲み込んでから、きっとパピルスは、僕が泣いてもからかったりせずにハグを続けてくれるんだろうなと思った。

でも僕は泣かなかったので、パピルスはゆっくり体を離す。
それから、さっきとは打って変わって真剣にこう言った。

「兄ちゃんがね!キサマと話したいって!」


「なあ」

僕が病室に戻って、数分。
背の低い彼……サンズはぽつりと呟いた。
僕はその聞き覚えのある言葉に、身構える。
今度こそ続きを聞けるんだと思うと、胸がはち切れそうなような、宙に浮かぶほど幸せなような、不思議な感じがした。

サンズは、病室のドアを見やる。
パピルスがそこにいるはずだ、彼は僕をここに押し込めてから「トイレ!」と叫んで出ていったのだ。

「…………アンタさ。
オイラと仲良くなりたいか?」

僕は頷く。
サンズは、気まずそうに眼光を逸らした。

「あー。まあ、だよな」

しばらくふたりとも喋らなかった。
廊下からのさざめきだけが病室に響いて、とんでもなく気まずい。
なんていうか、サンズと僕がふたりきりになると、こういう気まずい瞬間が何度も起こる。
これはある意味で、懐かしかった。

「……オイラさ。
前からアンタのこと、よくわかんないヤツだと思ってたんだ。
何がしたいのか、わからないっていうか……
だから、ぶっちゃけニガテだった」

特には傷つかない。
サンズからすれば、当たり前の事だと思う。
突然こんなに幸せな時間が、突然こんなに長く訪れたんだから、よくわからなくなって当然だ。
特に、以前までの事を思えば。

「でも最近、アンタはただ普通に、普通の人間みたいに、自分の人生を良くしたいだけなんだって分かるようになってきた。
それで、オレも、アンタがそうしたいなら友達になろうと思ったのさ……
だけどいざやってみようとするとな。へへ」
「無理しなくていいよ。
そんな事するために、悩まなくていいよ」

僕は本気でそう言った。だって、正直、彼がさっき、パピルスに言ってた事は、ウソだとよくわかっていたからだ。
それでも、サンズはうめく。

「ムリなんかしてないさ。
オレがそんな事するように思えるか?」

僕は思わず笑ってしまった。
サンズの言葉にはいつもそうしてしまう。
サンズには、ひとを楽しませる力があった。素晴らしいひとなんだ。
僕はよく知っている。

サンズは、ベッドに身を深くあずけた。
少し疲れてきたようだ。

「……なあ。
なにはともあれ、アンタはずっとオレのためにココへ通ってくれてたんだ。
率直にいって、感謝してる」
「いいんだよ。
君だって、ずっと僕を見守ってきたじゃないか」

サンズは薄く笑う。

「昔の話だろ?……懐かしいな」

サンズは何を思い出しているのかな。
思い出す事がたくさんあるだろう。僕にとっても、彼にとっても、それは嬉しいことに違いない。

「……そうそう。オレ、これが言いたくてアンタを呼んだんだ」

サンズは眼窩を細めて、今までで一番の笑顔を僕に向けた。

「ありがとな。フリスク」

6/27/2025, 7:06:52 AM