Theme:胸の鼓動
私の主がベッドに横たわっている。
40代手前でまだまだ寿命には程遠いが、病気により余命幾ばくもない。
私は主の身の回りを世話をする。主が5歳の頃から、それがずっと私の仕事だ。
白湯を手渡すと、その手を彼が取る。
そのまま私の掌を自分の胸の上にそっと置く。
彼の体温と、静かに規則正しく胸の鼓動が続いている。
「どうなさったんですか?」
私が問うと、主は静かに言った。
「この心臓が止まって私が死んだら、私の妻と子供たちのことを頼むよ」
「かしこまりました。どちら様を新たな主とすれば宜しいでしょうか?」
彼は苦笑する。
「きっちり決まっていないと気が済まないのは、昔から変わらないな」
「申し訳ございません。しかし、私はロボットですから、明確な定義が必要なのです」
「解っているよ。では、私の死後は私の長男を新たな主にしてくれ」
「かしこまりました」
主は満足そうに頷くと白湯を一口含む。
「ロボットか…。私にとって君は幼い頃からずっと側にいる、かけがえのない存在だ」
「ありがとうございます。貴方のように私にも『心』があれば同じ想いを抱けるのでしょうか」
「心か。『君に心があるかどうか』は子供の頃からずっと議論してきたけど、決着がつかないままになりそうだ」
「貴方が『私に心がない』と認めてくだされば、すぐに決着がつきます」
「『心』をどう定義するか、それすら明確になっていないのに、認めるわけにはいかないな」
彼はそういうと、私の胸に手を当てる。
「私に心臓はございません」
「解っているよ。でも、こうして手を当てていると温かいし規則正しいモーターの振動が感じられる。外殻が違うだけで心があるのは一緒だと、私は信じたい」
「……貴方がそう言ってくだされば、十分でございます」
「珍しく、君から折れたね」
「こう言わないと、貴方はまた思考実験を始めてしまうでしょう。それではお体に障ります」
「心配してくれているのか」
「これまでのデータの蓄積から、最適解を見つけて実行しています」
「そういうところが君らしい。『個性』というのも『心』の表出とは思わないかい?」
「しかし……」
主は私の言葉を遮るように、再び私の胸に掌を当てる。
「『心』なんて不確かなものより、君の胸の鼓動がここにある事実。それが大事だと思わないかい?」
応えようとしたが、彼はそのまま眠ってしまったようだ。
私はブランケットを整えて、部屋を出る。
それから数週間後、主は亡くなった。
私に心はない。そんなものはプログラムされていない。
ただ、主の言った通り、私は確かに存在している。
私が欲する心よりも、それは大切なことなのだろうか。
「難しい命題を遺して逝かれましたね。貴方様」
9/8/2023, 10:52:31 PM