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わぁ!

 間の抜けた大声を上げながら、八歳になる甥っ子が廊下を走っていく。その後ろで、二回りほど小さなうちの子がシーツを頭からすっぽり被り、両手に赤いミトンをはめて、《わぁ》と書かれたスケッチブックを掲げて伴走している。
「おうちの中で走らないの」
 姉の急な入院で預かって一週間。二人とも、少しは元気になったようで良かった。

 数日前のこと。聞いたこともないような叫び声が響き渡った。
 男の子というのは、変声期前であっても意外とダミ声というのか、とにかく辺りに響く声を出せるらしい。
 自分はこんな声を出したことがあったか…いや、それよりも我が家で今叫び声を上げられるのは、一昨日来た甥だけだ。何があった、と腰を上げたところへ、うちの子が現れた。
《とったの》スケッチブックにそれだけ書いてある。
「何かあった? ゆっくり書いて教えてほしいな」
 この子は声を出さない。おそらく出せない。
「叔父さん、この家なんか変なのがいる‼︎」
 甥っ子が飛び込んできた。途端にうちの子は僕の後ろに隠れてしまった。
「変なのはいないよ。ただ最初に話した通り、君より小さい子がいる」
「うん、なんか手袋が飛んでた!」
 彼が差し出した手の上には、赤いミトンが片方のっていた。うちの子が最近気に入ってずっと着けているものだ。そっと振り返ると、《とったの》のメッセージが激しく揺れている。右手の手袋がなくなっている。
「…話を聞くから、とりあえずそれを僕にくれると嬉しいな」

 うちの子は所謂、幽霊である。
 ずっと昔に近所で殺された、身元不明の男の子だ。
 何か未練があるのだろうか、ずっとひとりでこの辺りにいた。僕はそうと知らずに引っ越してきて仲良くなった。
 とは言ってもこちらはそろそろ中年の独身男だから、
《おともだちに なってください》
と頼まれて頷く訳にはいかない。
 ただ、家の裏の丘に行くたびに会うので、家庭環境が心配ではあった(僕は研究者をしており、晴れた日には屋外で寝転んで数式と向き合っている。つまり普通の大人よりもそこに行く回数が多い)。
 そろそろ警察かどこかに相談を、と思った時に、思わぬ掘り出し物に出くわしてしまった。
 此処は僕が子どもの頃、ひと夏だけ過ごした土地である。その時にこの丘に埋めた宝物の缶を探していたら、出てきたのはこの子の頭蓋骨だった。
 その年のハロウィンの日、かれは僕のうちに引っ越してきた。それ以来ずっと此処にいる。ぬいぐるみと本が大好きで、身体は小さいがとても賢い。
 子育ての穏やかで楽しい部分だけを受け取っているような生活は、なかなか幸せだ。反面、かれが「とても苦しんで」亡くなったこと、いつ何処へ行ってしまうか分からないことを考えると、何とも言えない気分になる。

 そんなところへ、甥っ子がやって来た。
 母親が急に入院することになり、あまり会っていない叔父に預けられる(姉とは決して不仲ではないと思っているのだが、家が少々離れている)。叔父の家には間違いなく何かがいて、叔父はそいつの味方らしい…。
 今から考えるととても不安だったろうと思うのだが、とりあえずは「いつもの生活」を優先してしまった。何とか一週間くらい、今までの我が家のルールでやっていけるだろう。
 甘かった。僕は子どもの頃の自分を美化し過ぎていたらしい。

 甥っ子は我が家の居間でずっと回り続けているコマ(うちの子が拾ってきた団栗で作ったもの)に驚き、見つめているうちに怪しげなものに気がついた。
 赤いミトンが、コマが止まりそうになるたびにすっと現れて回していく。
 興味本位でわざと止めてみると、赤いミトンは必死にポカポカと彼を叩いてきた。引っ張っているうちに、片方が脱げたので取り上げた。その結果が《とったの》という訳である。

 ともかくミトンを返すこと。
 コマが回るのは物理学の法則によるものであって、それについて知りたければ自分の授業を受けること。
 誰であれ、自分より小さな子を悲しませないようにしてほしいこと。

 我が甥はちゃんとそれを守ってくれた(物理の授業を除く)。その代わりに、「ふよふよ漂う手袋」と全力で遊ぶことに決めたらしく、うちの子もそれに応えることにしたらしい。
「叔父さん、この子今何してる?」
 大体はすぐ横で甥っ子の真似をしている。
 馬鹿正直に教えていたら、いつの間にかうちの中が混沌と化していることに気づいた。
 おうちの中で走ってはいけません。
 ベッドの上で飛び跳ねてはいけません。
 クッキーを食べたのは誰ですか。
 二人はそのたびに頷いたり首を振ったりする。甥にうちの子は見えていないのだが、動きがぴったり揃っている。

 そして今日。
「ママから電話だよ」
 連絡が来たら出ることになっている。荷物はもうまとめてある。
 甥っ子の声がこれまでと全然違う。色々我慢していたのだろう。
 子どもたちは握手をし、うちの子は《またね》と書いたので読んでやった。

 バスの中にて。
 甥っ子はお菓子を取り出そうとリュックを開け、小さく「わぁ!」と声を上げた。
 チョコレートと一緒に、あの団栗のコマが入っていた。
「君にもらって欲しかったんだね」
「叔父さん、また来ていい?」
「もちろんだよ。ただしベッドで飛び跳ねないこと」
 あの楽しさを思い出したらもう無理か。我が家でも靴を脱いでいればOKにしようかと思う。
 どんな子であれ、子どもはできるだけ楽しく過ごしてほしい。特にその子が、何かを必死に我慢している場合には。

1/29/2025, 12:52:20 AM