【涙の理由】
「泣きたい時は泣いて良いと思うよ」
と、僕が彼女に話しかけると、名前も知らないその人は驚いたように僕を見てから、静かに涙をこぼし始めた。
深夜のカフェ。
どっぷりと日が暮れた窓の外の景色が、まるで額縁に飾られた写真に思えた。お店には、優しい灯りを落とすランプと、大人びたBGMが静かに流れている。
カフェというより、時間帯ならもはやバーに近い。
それでも、この柔らかな暖かい雰囲気は、やはりカフェ特有のソレだな、と僕は思っている。
「泣いていい、なんて初めて言われたわ」
彼女は涙を拭いながら、少しだけ笑った。
髪を長く伸ばした、大人のお姉さんだ。その顔は少しやつれていて、お腹には抱っこ紐で支えられている赤ちゃんがいた。
泣き声をあげてないから、寝てるのかもしれない。
深夜カフェに、赤ちゃん?
珍しいな、という言葉の代わりに僕は店主にココアを頼んだ。
泣いていい、なんて余計なことを言ってしまったかなと思いつつ、少し相手の笑顔に救われる。
「僕もこのカフェに初めて来た時に、店主さんに言われたので」
「そうなんだ。……常連さん? 学生が深夜にカフェとは驚いたわ」
「あー……たまに? 一応、大学生ですけどね。バイトが遅くなると、ここで朝を待つんです。……夜の道は怖くて、歩けないんですよ」
夜道恐怖症……と僕は呼んでいるが、本当は何と呼ばれるべきなのかは知らない。
そんな僕の逃げ道の一つが、この深夜カフェだ。
《深夜に居場所が欲しい人へ》と言うコンセプトのカフェは、たまにこうして特別な事情のある人が訪れていた。
「そうなのね。……私も朝までいてみたいわ」
「いたらいいんじゃないですか?」
「それは無理よ、赤ちゃんいるし」
彼女はしばらく黙って赤ちゃんを見てから、言葉をこぼすように呟いた。
「私ね、逃げて来たの。赤ちゃんの泣き声がうるさいと、怒られちゃって。普通の子じゃないから」
「?」
「この子、耳が聞こえないのよ。だから音楽や言葉で安心させることが難しくて、なかなか泣き止んでくれない子なの」
耳の聞こえない子と言われ、意外に思った。
そんなの見た目じゃわからない。
どんな声で泣くのか、そのせいでどんな辛い目に合っているのか、僕には想像することしかできないけれど。
『泣くな』と言われ続けていたなら、どれだけ辛かったのだろう。
お前のせいでーーと怒鳴られるのを想像して、僕の胸が軋む音がした。
彼女は暖かなコーヒーを一杯だけ大切そうに飲むと、暫く目を閉じて考えているようだった。
(それと僕はカフェインレスコーヒーを初めて知った)
それから暫くすると、赤く腫れた目で、赤ちゃんのために帰るね、と店を後にした。
彼女がなぜ泣いたのか、僕は知らない。
きっと、育児の苦労なんて経験者にしかわからないのかもしれない。
でも、彼女は赤ちゃんの為に泣いたのか、自分の為に泣いていたのか、朝までもう少しだけ考えていた。
できるなら後数時間……彼女と赤ちゃんが眠れますようにと、願いながら窓を見つめて。
10/10/2023, 2:28:07 PM