香る夢

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「ママぁ。上靴どこ?」
「その袋の中に入ってるよ。忘れないで持っていきなさい」
新学期の始業日は慌ただしい。持ち物も多く、両手に大きな袋を下げた娘の背中で、ランドセルが揺れている。
「遅刻しないでね」
玄関で娘を見送ると、依子は軽くこめかみを揉んだ。四十を過ぎたばかりとはいえ、このところ疲れが目立っている。
鏡のなかで、すっと引かれた目頭のシワにため息がでた。
「洗濯物を畳まなくっちゃ」
そう独りごちて、洗濯かごの横に座った。窓から眩しいくらいに日が射している。カーテンを引こうとして、ふいに頭をかすめた出来事があった。

あの日も眩しかった。目がくらむほどに。
私は真っ直ぐ見つめていた。彼の顔を。
彼もこちらを向いていた。夕陽が彼の輪郭を金色に縁取っていく。彼の背中でオレンジ色と金色が混ぜ合わさって、不思議な色味を帯びていた。光が輝けば輝くほど、彼の姿は黒く染まった。まるで昼と夜みたいに。
彼の表情を伺い知ることはできない。
「さようなら」
そう言って私は、その場をあとにした。彼は追わなかった。ただひとつの恋が、当たり前に終わっただけだった。

でも今になって思うのだ。あのとき彼は、どんな表情をしていたのだろう、と。
それを思うとき、私の心は風のない湖面のように凪いでいる。何か感情がうまれるわけではない。ただ時おり、思い出すときがある。

朝食を作る、まだ誰も起きてこない朝。家族がそれぞれ出掛けたあと。スーパーで買い物をしているとき。ひとり、夜に入る湯船。

そんななんでもない日常のなかに、ほのかに蘇る想い出が、私にもある。



1/24/2024, 2:43:08 PM