ミミッキュ

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"つまらないことでも"

「…。」
日が傾き始めた頃、居室の戸棚の奥にしまわれていた埃の被っていない黒い箱をいつもの様に取り出し、部屋を出て聖都大学附属病院へと向かう。
箱の中身は、金色に輝くフルート。数年前から使っているというのに、未だに綺麗な輝きを纏い綺麗な音色を奏でる。それは手入れを欠かさず、ずっと大切に扱ってきている持ち主へのお礼の輝きと音のよう。だが肝心の持ち主は奏でる事を『つまらない』と思いながら音を奏でていた。つまらないと思う様になったのは、大学に入った辺りから。それまでは勉強に行き詰まったり疲れて頭に何も入ってこなくなると、頭を空っぽにするために箱からフルートを出して自分でフルートにアレンジしたテキトーな曲を奏でていた。だが小さい頃からの夢だった医者になるための第1歩、医者になる確実な道を踏み出すと勉強に行き詰まる事が無くなった。いや、どんなに難しい単語が出てきても、どんなに難しい病名が出てきても、それを学ぶのが楽しくて苦になる事が無くなった。勿論それまでずっと毎日のように奏でていた訳だから1回でもフルートに触り奏でないと落ち着かなかった。けれど丸々1曲吹くことはなく、いつもワンフレーズのみだった。無免許医になってからは、環境の変化や人間関係で心がザワザワする事がほぼ毎日だったので、夜中にフルートを取り出し吹いて心を落ち着かせていたが吹いてはいたが、やはりつまらなかった。
聖都大学附属病院の正門前に着き中に入る。入るとエレベーターに乗り込み最上階のボタンを押して上がる。何故今フルートの入った箱を持ってこの病院の屋上に向かっているのか、答えは簡単。患者のせい。
数週間前、居室の掃除をしていた時に戸棚の中の箱を取り出した所をニコに見られた所から始まった。最初は「開けろ」だの「見せろ」だの五月蝿く、仕方なく箱を開けて中のフルートを見せると今度は「吹けるのか」と聞かれた。持っているのだから吹けて当然だと答えると「じゃあ吹いて」と言われ、今まで人前で吹いた事がなかったので「嫌だ」と断るとしつこく「吹け」と言われた。もうこうなったら何言っても無駄だと思い観念して「好きにしろ」と答えた。後は知らん。アイツが何か言ってきたのは分かるが、掃除の途中だったのでそれ所じゃなくテキトーに返事をしたらこの病院の屋上でいつものメンツを集めて演奏会を開くことになった。
思い返しているとエレベーターが最上階に着いた。扉が開き、屋上へと繋がる階段を登り扉を開く。観客はもう既にヘリポートに座り待っていた。扉が開く音に気付き、俺の姿を認めると「主役の登場」やら何やら訳の分からん事を言いながら拍手する。少し頭痛を覚えながらヘリポートの中央へ歩みを進め、夕日のスポットライトを背後に位置に着く。ここまで来たらもう、やる事はただ1つ。曲を奏でるのみ。その場にしゃがみ込み箱を開けていつもの様な手付きで中のフルートを取り出す。フルートが夕日に照らされいつもより強く輝いている。その輝きを見つめながら立ち上がり、構える。俺が構えると、先程までの騒がしさが嘘のように静寂が降りる。
曲は、前にニコがやっていたゲーム音楽。ゲームをやっているのを横目に作業をしていたが、その曲が流れた時手が止まってその曲に聞き入っていた。後にその曲名を聞いて調べて、改めて聴いた。この曲をフルートで奏でてみたい、初めてそう思った。編曲なんてやった事ないから試行錯誤しながらフルートにアレンジし、出来てから何度も奏でていた曲。人前での演奏は今でも不安で仕方ないが、この曲を聴いて欲しい、ただその気持ちを乗せて奏でようと胸に決めてここまで来た。
スゥ…。大きく息を吸って、曲を奏でていく。音を出す度に心が凪いでいき、指が自然と次の音を鳴らす為の場所に動き、音が繋がってそれが小節となり、それがワンフレーズ、そして曲となる。
曲名は"Last Surprise"。奏でていると心が弾んで体が勝手に動く。この曲はゲームの戦闘曲らしく、心が弾み体が動くのはそのせいだろう。

イントロから、もう体が揺れ動く。イントロを奏でているといつも楽しく弾むが、音が走ってしまわないよういつも気を付けている。今回も音を走らせないよう細心の注意を払い、自分の中のリズムを聴きながらイントロを奏で、Aメロへと入る。
Aメロではボーカルメインの音運びになるため、脳内の片隅にボーカルの声を再生しながら奏でていく。原曲はアレンジしている際に何度も何度も聴いていたので、歌えるほどに覚えている。今にも歌い出したくなるのをいつもの様にグッと堪えながら奏でていつもの様に気を抜かぬ様に奏でて、やがてAメロのサビに入る。難関はサビに入ってすぐの低音からの高音のロングトーン、サビでの1番の盛り上がりなので慎重になるが、1コンマでも奏でるペースを落としてはいけない。そこを乗り越えれば、再び歌うようにサビを奏でていく。サビが終わるとBメロへと繋がる間奏、この間奏すらも奏でていると体が揺れ動いてその気持ちのままBメロに入る。
Aメロとようにボーカルメインのメロディラインで音もAメロと同じ並びだが微妙に違ったり、またAメロより少し長いメロディで、ここもやはり気が抜けない。
そしてBメロのサビへ、サビは全く同じ音の並び。再び入ってすぐの難所を突破し、リズミカルに奏でていく。間奏も先程と同じ音で、Cメロへと丁寧に繋げていく。
そしてCメロ、これまでとは全く違うメロディラインでこれまでの弾んだ心を落ち着かせて少しスローダウン、そして最後のサビへと向かう。俺は個人的にこのCメロが好きだ。だからどのメロディよりも丁寧に心を込めて音を紡いでいく。
スローダウンした事により、最後のサビでこれまで以上の音の盛り上がりを出す。曲名に相応しい盛り上がりを3度目の難所を難なく乗り越えながら見せると後はその弾む心のまま、曲の終わりまで音を奏で繋いでいく。
そしてアウトロに入る。少々名残り惜しいが、最後の最後まで丁寧に丁寧に奏でていく。

曲が終わり、目を開けフルートから口を離して顔を上げる。ワァッと今まで感じた事の無い拍手喝采が押し寄せた。夕日のスポットライトを背後にフルート奏者よろしく丁寧にお辞儀をして、恥ずかしさに顔を伏せる。心臓はドクドクと、五月蝿く鼓動を鳴らす。だが同時に、やりきった達成感による喜びが湧いてくる。フルートを奏でて、こんな気持ちになったのは初めてだった。それと人前で吹く事など初めてのはずだったのに、何故かどこか懐かしかった。それはきっとあの頃までと同じように、奏でる事を「楽しい」と感じたからだ。
どうしようかとずっとずっと考えながらも奏でる事を止めずにいたフルートを、自分から進んで奏でたいと思う曲に出会い、その曲を今更初めて人前で奏でて、こんなにも『楽しい』と思う事になるなんて、夢にも思わなかった。
また奏でたい、今度はどんな曲をコイツらの前で奏でよう?頭の中はそんな考えでいっぱいだった。
そんな事を考えながら顔を上げ、今度は観客との会話に言葉を弾ませた。

8/4/2023, 12:38:15 PM