『獣の肖像』
この世に、生まれてきてすみません。
気づけば、それが口癖になっていた。会社のトイレの鏡の前で、ふとした拍子に呟く。帰りの満員電車の窓ガラスに映る自分の顔を見て、また呟く。何の感情も湧かない。ただ、言葉だけが口をついて出る。
社会人になってもう何年経っただろうか。仕事は無難にこなすが、評価されるわけでもない。特別に嫌われることもないが、誰かと本音を語ることもない。なんとなく流されるままに働き、帰って、コンビニ弁当を食べ、酒を飲んで眠る。生きるというより、ただ日を消費しているだけのような気がする。
そんなある夜、大学時代の友人と偶然再会した。
彼は、かつて小説を書いていた男だった。将来は小説家になると意気込んでいたが、卒業後は連絡が途絶えていた。
「久しぶりだな」
彼はカフェのカウンター席に座っていた。私が声をかけると、ゆっくりと振り向く。目の下には深い隈が刻まれ、頬はげっそりとこけている。
「お前……まだ、小説を書いてるのか?」
私の問いに、彼は微かに笑った。
「小説なら、とっくに捨てたよ。俺は今、人間を辞めたところだ」
「は?」
意味が分からなかった。
「もう無理なんだよ。人間として生きることに疲れた。誰からも認められず、何の意味もなく日々を消費するだけの生活。お前も同じじゃないか?」
私は返事に詰まった。
彼はスマホを取り出し、ある動画を見せた。そこには、彼が荒れ果てた部屋で、夜通し何かを叫びながら踊っている姿が映っていた。視聴者は数万人。コメント欄には、「すげえ」「狂気だ」「これは本物の獣」といった言葉が並んでいた。
「なあ、お前も獣にならないか?」
彼は言った。
「人間のルールの中で生きていても、どうせ俺たちは誰からも必要とされない。だったら、社会の檻の外に出ればいいんだよ。理性なんて捨てて、ただ本能のままに生きるんだ」
私は、彼の言葉を笑い飛ばそうとした。だが、その目を見た瞬間、言葉を失った。
彼の目は、スマホの光を反射して異様に光っていた。まるで、暗闇の中で獲物を狙う獣のように。
「お前も気づいてるだろ?」
彼の声が低く響く。
「このままでは、どのみち俺たちは食い潰されるだけの存在だ。だったら、いっそ――」
その時、店の自動ドアが開き、冷たい夜風が吹き込んだ。私は一歩、無意識に後ずさる。
獣になるか、人間を続けるか。
私の足は、カフェの入り口に向かって動いていた。
彼の目が、じっとこちらを見つめているのを感じた。
終
2/7/2025, 4:06:09 PM