くまちゃん

Open App

ポコン

 小気味のいい音を立てて「太宰治」からLINEが入った。
 もちろん、かの文豪・太宰治ではない。太宰治は75年前に入水自殺(自殺ではないという説もあるけど、まあいいでしょう)をしているし、私は先日、桜桃忌だからとさくらんぼをしこたま食べたところだ。
 この「太宰治」というのは、私の大学時代の友人で、文芸サークルに所属していたから洒落でLINE上の名前を変えてあるのだ。以前は「芥川龍之介」や「武者小路実篤」もいたが、私が不精なばかりに今や連絡を取るのはこの「太宰治」だけになってしまった。よく、既読無視してしまう私にも懲りずに連絡をくれる良い奴だった。「太宰治」とも月に一度か二度、数往復のやり取りがあるだけ、それも、私が返信しないから途中で会話が途切れてしまうのだが、それでもまた連絡をくれる。少々相手の厚意に甘えすぎているとは思うが、私の数少ない友人だった。
 内容はごくありふれたもので、この前見た映画が面白かっただとか、職場の隣の席の人が風邪を引いているだとかそういうものだ。
 なぜこんなにも普通の、そして割合良い人間を「太宰治」にしたのだったか。

 まあいい、今回はちゃんと返信しようとスマホを手に取る。
『川に行こう』
 脈絡のない誘いだった。
 いや、脈絡はあったかもしれない。以前「近くに景勝地として有名な川があるのに行ったことがない、夏になれば川辺はきっと涼しいだろう」そういう話をした。その話の続きだろう。
 そうして「太宰治」という名前にした理由も思い出した。たしかあの頃、頻繁に川に行こうと誘われたのだ。特に深い意味はないだろうが、それを聞いた誰かが「入水自殺でもするのか」と、冗談を言った。それで、その場にいた数名で「太宰治」やら「芥川龍之介」やらにLINE上の名前を変えた。今となっては何がそんなに面白かったのかさっぱりだが、その時は皆面白いと思っていたのだ。
 『行かない。まだ寒そうだし』
 結局あの時川には行かなかったな、と思い出しながら私はあの頃と同じ返事をした。
 そういえば、私は「坂口安吾」になっているのだったか。

お題:「1件のLINE」

7/12/2023, 11:53:34 AM