ー風鈴の音ー
ねえ……なんの音?と、彼女は私に聞いた。
知らないの?と返すと俯き気味になり小さくうん、と返事した。蝉の音のうるさい真夏日の出来事である。
7月に入ってから30度以上の気温が当たり前になり、外を出れば汗がダラダラ流れ足取りは重く、肌は焼ける。
一方家は快適で、ガンガンにクーラーを効かして冷気を感じ、薄着で歩き回りやがて風邪をひく。
しかしそんな快適な家は私にとっては実家くらいのもので、私の家では光熱費を気にして蒸し暑さを我慢しながらみみっちく扇風機を回している。
現在大学生として田舎の実家から離れ、都会の賃貸アパートで一人暮らしを始めてもう3ヶ月が経っている。元々家事全般はやっていたので(やらされていたとも言える)生活に困ることは今の所ない。時々孤独の寂寥を感じることはあるが、その時は友人に電話を掛けたり読書に耽る事で私なりに孤独に立ち向かっている。
大学が夏休み期間に入ったので、私は実家に帰省してダラダラ過ごそうと考え母親に電話した。
私の母は大変なおしゃべりで、ただの散歩を共産主義者がマルクスを語るように喋る。
恐れと嘲りが混ざった態度でしばらく会話をし、母が落ち着いた隙を見計らってちょっと用事があるからと嘘をついて一方的に電話を切る。こうでもしなければ止まらない。
私は大学で友達になった顔の整った都会育ちの女の子がいる。両親ともに日本人であるのに骨格ウェーブで服のセンスもいい。私は彼女と友達であることに誇りを持っているのだが、性格に難があり、自分が1度したいと思った事を意地でも通そうとする。
私は母親の電話を切ったあと、その友人に電話を掛け、実家に帰省する旨を告げた。すると彼女は田舎の自然に触れたいから一緒に行きたいと熱望し、予定を勝手に立てて無理矢理約束させた。彼女のその喋り方はどこか母親に似ており、対策を立てない限りこちらを屈服させる。
仕方が無いのでまた母親に電話をして承諾を得て、彼女と共に実家に向かう。
3ヶ月ぶりに実家に戻ってきたが、私の故郷は人間が突然虫になるようなカフカ的な変貌を遂げていた。
まず、道行く人の顔貌には翳りがあって、ゾンビを髣髴とさせる歩き方をしている。彼女は最初それを田舎の日常風景だと思って元気に挨拶をしていたのだが、すれ違う度同じような顔で同じような歩き方をしている人たちを不気味に感じたようで、既に帰りたそうだった。
異変はそれだけでなく、道路標識に見たことの無い複雑な漢字が使われていたり、明らかに必要のない場所に標識が立てられていた。
私も流石に怖くなり、実家に着くまで彼女と手を繋ぎながら、互いが沈黙しないよう好きなアーティストの話などしていた。
夏の暑さとは関係の無い冷や汗を垂らしながら実家に着いた。何故か門の前に止まれの標識があった。私は実家に着いた安堵で特に気にする事なくドアを開けた。
その時、音が聞こえた。
ちりん……ちりん……。
私は後ろから音が鳴った気がしてすぐに振り返った。
そこに居たのは泣きそうになっている彼女だけで、音を鳴らすようなものはない。
彼女はねえ……なんの音?と私に聞いた。知らないの?と私は返すと、俯きながらうん、と小さく返事した。
これは風鈴の音だよ。だから大丈夫よ。そう自分に言い聞かせるように彼女に説明した。
しかし彼女は首を振る。この音は風鈴の音なんかじゃない、と。
彼女はたどどしく言う。ちりん……ちりん……という音と同時に呼吸音が聞こえた。これは風鈴では無くて何かの生き物の鳴き声では無いのか……と。
私はとりあえず彼女をリビングまで連れてきて、母親に電話をかけた。
今更実家に誰もいないことを不穏に思いながら、電話が掛かるのを待つ。
………………
3〜5秒ほどして母親の電話がつながり、私は嬉しくなって思わずお母さんと叫んだ。
ちりん……ちりん……
電話越しに聞こえたそれは、間違いなく母親のものであった。
彼女は悲鳴をあげ、私にはやく帰して!と叫んだ。
私は身動きが取れず、何度喋ろうとしても息が詰まってるようで、蛙のような声を出してしまう。
ちりん……ちりん………
その音と同時に地震が起きる。机が彼女目掛けて襲いかかり、私は冷蔵庫に押しつぶされ、割れた食器の破片が顔面に降り注ぎ血だらけになる。
地震はしばらくして収まったが、私達は完全に虫の息だった。彼女がどうなっているのかも分からず、母親もおかしくなってしまっており、他の家族も行方が分からない。私は色んな感情が溢れ出して泣いた。泣き続けた。
ちりん……ちりん……と音が鳴る。
その音は私の隣で聞こえている。冷蔵庫の中で何かが蠢いている。それは私に触った。背筋が凍る。
私の服から背中に入り込み、首筋までのぼって来る。あまりの気持ち悪さに嘔吐した。それは耳のそばまでやってきて、私に囁いた。
おかえり。
ちりん……ちりん……
と、私は鳴いた。
7/12/2025, 11:51:41 AM