【お題:雨に佇む 20240827】
最後にその人を見た光景を、私は今でも鮮明に思い出せる。
真っ赤な傘をさし、ブランド物の大きなボストンバッグを手に振り返ることなく歩いて行く後ろ姿。
玄関先で冷たい雨に佇む父の背中が小さく震えていた。
「私は真実の愛を見つけたの!」
言い切るのと同時に、美香子は料理の乗ったテーブルを両掌で叩いた。
食器がカチャンと音を立て、先程まで置かれていた位置から僅かにズレている。
「美香子、一体何個目の真実の愛よ!それに、そんな事はどうでもいいわ!問題は相手に家庭があることよ!あんたにだって武田くんがいるじゃない。それとも何?武田くんとは別れたの?」
「別れてないわよ。今別れたら私住むとこないもん。それに彼は奥さんと別れてくれるって言ってくれたもん!」
「美香子、いい加減に目を覚ましなさいよ。あんたのそれは浮気よ?不倫なのよ?」
「浮気じゃない、本気だもん。彼が私の運命の人なんだから!」
「⋯⋯⋯⋯」
グラスのジュースを一口飲んで、私はピザに手を伸ばす。
少し前に店員が運んできたピザは、まだだいぶ温かい。
この辺りでは珍しい、窯焼きのピザでこのビルの隣のビルの地下に入っている店の自慢の逸品だ。
頬張ると、チーズと小麦の良い香りが口の中に広がり、トマトの酸味がいいアクセントになっている。
「真実の愛でも運命の人でもどっちでもいいわよ。でもね、本当に本気なら、武田くんと別れて、相手の人が離婚した後で付き合いなさいよ」
「だから、浩二と別れたら、私あの部屋出て行かないと駄目じゃない。そんなの困るもん」
「困るもんって、美香子、あんた⋯⋯」
「だってちゃんと家賃払ってるよ、私」
「ならそのお金でどこかに部屋を借りればいいじゃない。小さく不便な部屋にはなるだろうけど」
外資系に勤めてる武田くんは駅近の広めの物件に住んでいるから、そこを出るとなればそれなりの覚悟は必要だね。
ピザを食べ終わった私は小皿を手に取り、テーブル中央に置かれたパスタを取り分ける。
『小エビの桜パスタ』という名の、エビと明太子のパスタだけど、これがどうして最高に美味しい。
エビはぷりっぷりで、明太子の出汁の効いた塩味とピリ辛感がマッチして堪らない。
また、細く切られた大葉が乗っているところもポイントが高い。
大抵のお店ではこの場合、刻み海苔が乗ってくるのだけれどアレは歯に着いたりするのでどうしても倦厭しがちになってしまう。
それが大葉になるだけで、これほどまでに安心して食べられる、なんて気が利いているのだろうか。
「お金じゃないもん」
「え?」
「お金で払ってないよ、家賃」
「えっ?じゃぁ、家事⋯⋯なわけないか。美香子、掃除も洗濯も料理も何一つできないもんね」
「うっ、そ、その通りだけど」
「じゃぁ何で払ってるの?」
「え、そんなのセッんぶっ」
私がフォークにぐるぐるに巻き付けたパスタを頬ばろうとした瞬間、フォークは文乃によって美香子の口に突っ込まれていた。
口に入れられたパスタをゆっくりもぐもぐと咀嚼し、ゴクンと飲み込む美香子に対し頭を抱える文乃。
「美香子、それは家賃を払ってるとは言わないわよ」
「そうなの?」
「そうなのよ⋯⋯はぁぁぁ」
盛大にため息を吐き出して文乃はソファに倒れ込んだ。
美香子と文乃とは大学で知り合った。
と言っても、同じ大学なのは文乃の方で、美香子は文乃の父方の従姉妹で文乃経由で親しくなった。
私と文乃がびっくりするくらい、一般常識が欠けている美香子は、身長152cmの小柄な27歳だ。
顔は所謂童顔と言う奴で、とても27歳には見えない。
フランス人形のようにぱっちりとした目鼻立ちをしていて、カワイイお姫様系。
本人もそれは自覚していて、服装なんかもふりふりふわふわしたものが多い。
ただしお胸は何が詰まってるの?と思うくらいの大きさがある。
そして世の中の男性陣の中には、そんな女性が大好きな人が多いのも事実。
でもそれは、性的欲求を満たすためだけという場合も多く、生涯の伴侶としてのそれとは別。
無論、その女性の内面も含めて『好き』というのであれば何ら問題はないけれど。
「美香子、浮気や不倫ってお金がかかるんだよ」
「え?詩織、どういう事?」
「まず大抵の場合、慰謝料が発生するの。相場は200万から300万。離婚して子供がいればどちらが養育をするかにはなるけど、養育費を払わないといけないわね。その場合子供の人数や年収にもよるけれど、子供一人で平均月に5万くらい」
「さ、3人だと?」
「平均で月9万弱かな。まぁ10万みといた方がいいかも。それから相手の奥さんは不貞の相手、この場合は美香子に慰謝料を請求できる。で、これも大体、200万から300万」
「えっと、旦那か不倫相手かのどちらかに請求できるの?」
「違うよ。両方に請求できるの。例えば旦那が5人と不倫していたとしたら、奥さんは、旦那さんと不倫相手5人の合計6人に慰謝料請求できるって事」
「え、それって奥さんズルくない?」
「ズルくない。結婚⋯⋯婚姻関係が国によって認められているっていうのは、それだけの権利を持つの」
「⋯⋯⋯⋯」
「だから文乃の言う通り、本当に本気なら相手は離婚、美香子は武田くんと別れてから付き合うべきよ。まぁ、もう既に不貞行為をしてるなら、相手の奥さんからは慰謝料請求されるとは思うけど」
でもまぁ、武田くんはどんな事があっても美香子を手放さないだろうけど。
「美香子、きちんと考えなよ。私達もう学生じゃないんだから」
「文乃の言う通りだよ。真実の愛とか運命の人とか言うけど、そういうのって、出会ってすぐにわかるものじゃなく、長い時間を一緒に過ごしてからわかるものなんじゃないかって私は思う」
「でも⋯⋯」
「だって今までに5回も美香子の真実の愛があったけど、本当に真実の愛だった?」
「⋯⋯⋯⋯」
「長くて半年くらいじゃなかった?」
「⋯⋯⋯⋯」
「私が言えるのはここまで。あとは自分で考えてみて。ね、美香子」
「うん⋯⋯」
「よし、じゃぁ歌うよ〜♪」
その後、終了時間までの4時間半歌いに歌いまくって喉がちょっと痛くなった。
ちょっとスッキリした顔の美香子を見送って、私と文乃は駅に向かって歩く。
「詩織、ありがと」
「うーん?まぁ、友達だしね。で、文乃はどうなの?」
「仕事が楽しくて全然そんな気になれないのよね」
「はははっ、私と一緒か」
「まぁ、子供産めるうちに結婚はしたいかな、って思ってるよ」
「だねぇ、父さんに孫抱かせてあげたいな」
あの人は浮気も不倫もせずに、父ときちんと離婚して、私を父の元に置いて出ていった。
私と会うことについて、父は特に制限を設けなかったが、あの人はケジメとして一度も連絡してくることも、会いに来ることもなかった。
父は再婚することなく私を育ててくれた。
そして先日、酔った勢いでポロリと零した言葉。
『俺にとっては運命の人だったよ、あいつは。だって、詩織を産んでくれたからな』
そう言った父の顔は、穏やかだった。
「じゃぁ、また連絡してね」
「うん」
駅の改札を通って、それぞれのホームに向かう。
階段を上りホームに立ち、名前も知らない人の後ろを歩き、いつもの乗り場に立つ。
運命ならばきっと、こんな人混みの中でもお互いを認識できるのかもしれない。
まぁ、今の私にはそんな人は居ないけれど、少しはそっちのアンテナを張り巡らせていた方が良いかもしれない、と思った。
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(´-ι_-`) 不倫、ダメ絶対。
8/28/2024, 4:42:36 AM