よあけ。

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根本的に「人との心の繋がり」というものが分からないんだと思う。そしてまた、私が理解されることも少ないのだろうと思った。


友達の誕生日プレゼントを選ぶというのが苦行に感じた。頭を抱えストレスを感じながら一生懸命プレゼントを探す。友達は何が好きとか、どんなものに興味があるとか、分からないから、何を選べばいいのかさっぱり。知ろうともしてなかったというより、別に知る気もなかった。

友達のフルネームも覚えてない、誕生日はカレンダーにメモしてるけど覚えてない、どこに住んでるかも曖昧だし、その子が何色が好きでどんなものが好みだとか別にそもそも興味ないし、深堀しないし聞かないし知らないし……知る気もない。から、わからない。どうでもいいと思ってるわけでもない、でも、何か気持ちがあるのかと問われると、答えられない。本当に無、といえばいいんだろうか。何も。「はあ」とか「別に……」とか、そんなスカスカなものしか出てこない。これがスカスカという感覚もない。ある人からすれば、私のこの感覚はスカスカらしいから、そう形容している。

誰かから何かを貰っても、嬉しい嬉しくないとかどうとか、あまり思った記憶がない。どう思うかと聞かれても「どう」とかない。貰って嬉しい気持ちと、物自体への感想や興味は湧いてこない気持ちと別々にあるような感覚。何を貰って嬉しいとかも特にないし、何を貰っても使うけど、別にいらない。物自体はどうでもいい。気持ちは嬉しいと思ってる。その「何かあげよう」と私に思ってくれた気持ちは嬉しい。から、別にいらない。何を貰っても、物自体に、強いて言えば「ああ、そう」という感想は湧いてくるが、それ以外は分からない。あるのかないのかすら不明。

ジレンマというやつだろうか。だからきっと、なにかあげたい!って言ってもらって、一緒にアイスクリームでも食べに行って、奢ってもらうくらいが丁度いいのかもしれない。いや……それもいらない……誕生日という概念がなくなればいいのに。

多くの人は物を渡すことで気持ちが伝わるらしい。だから、気持ちが伴ってなくても取り敢えず物さえ渡せば「あなたに関心がありますよ。あなたの事を考えてますよ。忘れていませんよ」という証明になると思って、プレゼントを渡した。それ以外、自分の気持ちを伝える方法が分からないから。それに本当に、相手のことを、他の人らよりは好感を抱いているのは事実だし、それを伝えたほうがいいということも分かっている。けど、私なりの伝え方じゃ相手には伝わりにくいし理解を得られたこともないから、わかりやすい方法を試すしかない。

プレゼントを渡して喜んでくれることは嬉しい、覚えててくれたんだと喜んでくれることは嬉しい、使ってくれたらなお嬉しい、けど、根本的にそこじゃない気もしている。私は、もっと根っこの部分で、他人と繋がることはできないんだろうなと思った。


他人に「優しい」と思われた方が良いと感じるのは、私が思う「正解」に近しいからかもしれない。

私が相手の話に耳を傾け相槌をしできる限り寄り添っている姿勢を見せるのは、相手のことを助けたいという善意ではなく「このパターンではこんな反応をしてこういう受け答えをしつつ適度に笑ってからトーンを落として真面目風にして」の様なことを考え、結果相手の態度や表情から良い感触が得られたと思えたら「ゲームクリア!」=正解という感じで一安心できるからだ。どうでもいい人に対しては自分が安心するだけ。相手の話は興味ないし相手の心理状態に干渉したいとも思わない。勝手にしてりゃいい、なぜなら私には関係ないのだから。

他人の心理状態や感情に深く干渉したくない、無理に共感することで自分が消耗するのを避けたい。そんな心理が働いているのかもしれない。

仲良くしたい友達とも、相手の反応を見て自分の感じと相手の隙間を埋めていくイメージで少しずつ自分を変形させていく。声のトーン、喋り方、口調、テンポ、笑い方、その他諸々。相手に嫌な印象さえ与えなければクリア。相手にさっさと帰りたいと思わせたり、もう今後貴方と関わりたくない喋りたくないと思われなければクリア。一安心。ああ、これでまた友達を続けられる、セーブデータがとれた、そんな気持ち。それと少なくとも少しは友達を元気づけることに貢献できたかな、という気持ちと。友達が落ち込んでたら、少しは励ましたいと思う。元気出してくれたり何か悩みが少しでも軽くなったら嬉しいなとは思うよ。少しは助けになれたんだって私自身も一安心する。他の人みたいにどうでもいいとは……いやどうでもいいなぁ……友達の話も私に関係ないことだったどうでもいいし、何を思えばいいのか分からないし、どうでもいいし、知らないし……だって私に関係ないじゃないか、とかしか。

慰めてと言われたら慰めるし、共感してと言われたら共感できる。そう振る舞えと言われたらその場限りではできるよ。指示をくれればその通りにする。けど、何も言われなかったらなんにも分からない。何をしたらいいのか分からない。相談なのかただ話を聞いてほしいのか共感してほしいだけなのかアドバイスがほしいのか、事前に言ってくれないと分からない。

だからいつもソワソワイライラしながら話を聞いて相槌打って相手の反応を伺ってる。いい感じの反応が返ってきたら「正解だったんだ」とホッとする。

「ただ話聞いてほしいだけなんだけど」とか「これは自慢なんだけどさ!聞いて!」とか「貴方だったらどう考える?」とか、前置きしてくれると助かる。じゃなきゃ、何を感じ取ればいいのか分からない。

人と話すということが分からない。イライラする。友達と話してても実は常にストレスが溜まっていた。相槌と共感としなければならないのか、今は不要なのか、見極めが難しい。ほんとはぜんぶ「ふ〜ん、そうなんだ」で終わらせたい。でもそうすると人は私を冷たい人だと感じるらしい、そういうつもりじゃないし、落ち込んでほしいわけでもないからニコニコして話を聞いていますよアピールをするのに必死だ。LINEの文章もなんかいい感じにしてる。語尾をかえたり、絵文字を使ったり。

そうしたらやっぱり人は混乱する。時々素で反応して「え、別になんとも思ってないけど」とか「どうって言われても、どう、とかない」というとびっくりされる。そらそうだよなと思う。「優しい人」だと思っていたのに、そんな回答だったら困るよな、と。人に優しくしてるのも、別に嘘ではないつもりだ。危害を加えられることがなければ基本的に人を攻撃したいとも思わないし、親切にしたいとも思うし、傷つけたいとも思わないし、穏やかに友好的にいこうね、と思っているから、私の優しさだって嘘ではない、と、思う。けど、きっと他人からしたらこれは「嘘」に分類されるだろうし。

友達に言ったことがある。「貴方にも私以外との交友関係くらいあって当たり前じゃないか。逆になかったら怖いよ。だから貴方が誰と仲良くしてようと誰と遊ぼうと誰からプレゼントを貰おうと、私には関係ないことだよ」って言った。私はたしかに、友達が私以外の人ととても親しそうだったら、少し寂しいと思ったりは、多分、普通にする。いや、どうかな……私以外にも交友関係くらいあるのだからそこにとやかく思っても無駄だと思うし、たとえ寂しくて落ち込んだりしたとしてもそれとこれとは別だと思っているから、そんな風に言った。そしたら、友達は私のことをドライな人間だと認識したみたいだ。表面上は、そりゃ、ドライ、だと思う。思考と感情は別。私以外と親しくしてて寂しいなと思ったとしてもそれは私の感情で私の勝手である。それに、私は普通の子みたいに頻繁にLINEもしないし遊びにも誘わないから、それができる子と私以上に仲良くなるのは当然だと思う。と思うから、思考を話した。だけ、だけど、こういうところから、きっといろんな人に勘違いされてるんだろうな、とか。

ドライ、冷たい、冷酷。そんなふうに思われてるんだろう。人と普通に話したいだけだし、できれば美味しいものを一緒に食べたりもしたいと思う。けど、それも、どんなふうに思われてるかも、別に、なんでもいい。


「コミュ障はこれをすれば治る」「コミュ力とは」みたいなやつを色々見て思った。今の自分は人と喋りたいわけじゃないなと。コミュ力つけたいわけでもないし、人と言葉のキャッチボールしたいとも思ってない。会話しなければならないからコミュ力をつけなければならないと思ってたけど、つけたいわけではない。今まで「私は人と喋りたいはずなんだ!」とか思ってきたけど、別にそういうわけでもない。テンポのいい会話とか、意思疎通とか、別にそういうのを望んでるわけじゃない。


人に何か褒められても「だから……?」という疑問が湧いてくる。服装がお洒落だとか、髪型が似合ってるだとか、鞄が素敵だとか、それがなんだというのだろう。もちろん貶されているわけではないから嫌な気持ちにはならないが、だからといってどう感じればいいのかもわからない。

社交辞令で言われようと本音で言われようと誰から言われようと、だからなんなのだろう、としかない。けれど「だからなんですか?」と言ったところでお互い困惑しかしないのだし、そんなんじゃ駄目だから「ありがとう、嬉しい」と言ってきたが、ずっと自分を欺いてきたように思う。相手を騙していたという認識ではなく。自分を騙してきた。

どんな反応すればいいのか分からずなんの感情も湧いてこないが「ありがとう」とにこやかに言ってる、そんな自分は正しい反応ができているはずだ、立派なはずだ、それに私は人から褒められて嬉しいと感じているはずだ、と思ってきた。正直ずっとしんどかった。いい子ちゃんな反応をするのがストレスだった。

人から褒められて「素直に受け取れない」ではなく「何をどう思えばいいのか分からない」というのは、人間として生きていく上で向いていない感覚なのだろうなと思う。人と繋がれないというのはこういうところから生まれているのかもしれない。


「今何してたの?」という質問がものすごくストレスだった。「YouTube見てたよ」と答えると「どんな動画見てるの?」と聞かれる。そしてここで「は?なんで聞いてくんの?」と言ったところでお互いしんどいだけだと思い、仕方なく「ゲーム実況とか見てたよ」と言ったら、次に「誰?」と聞かれるのだ。言いたくないから答えてねぇんだよボケが!!!!と思う気持ちをグッとこらえて、回避の方法も分からないから結局名前を教えてしまう。そしてもうその人のこと自体嫌になってその人から離れる。

「YouTube見てた」と言ったら「そうなんだ」でいいじゃないか。逸らせば逸らすだけ「なんで教えてくれないの?」だの言われる。というより教えたかったら最初から言っているはずだろう。言ってないってことは言いたくない教える気がないということだと分からないのか。そうか分からないか。きちんと説明すると次は「え、聞かれたくないってことは心開いてくれてないってこと?」とか言い出されるのだ。意味が分からないが、おそらく相手もこちらに対して意味がわからないと思っているだろう。

どれだけ仲が良くても教える気がないことがたくさんある。というこの感覚は珍しいのだろうか。珍しかろうと珍しくなかろうとどちらでもいい。踏み込んでこられることが私は嫌なんだ。


人と心理的な繋がりを築けない人間なんだと思う。誰のどんな話であっても私の中に出てくる感想は「ふ〜ん、そうなんだ」しかない。対人モードにスイッチを押して一生懸命相手に寄り添い私は相手に関心があるんだ!と思い込むことでなんとか「普通の人だったからこう思うだろう」と予想し「それは辛いね」だとか口にしているだけで、実際は何もない。虚無といえば虚無なんだろうか。それすら分からない。唯一出てくるのは怒りだ。怒り以外の感覚が少ないのだろうか。だからきっと、人からしたら私は変なやつに見えるんだと思う。そらそうだ。嫌なことを嫌とはいうが、じゃあ何が好きだとか何が嬉しいだとかは言わないような人間……いや、だから、好きなこととか嬉しいことをわざわざ言う必要性が分からない。不快なことは身を守るために伝える必要があるが、それ以外人に伝えて何になる?共感してもらえる?だから?別にいらない。

という気持ちを共感されたいなとは思う。踏み越えてこず、深く関わってこず、話を広げることもせず、ただただ「ふ〜んそうなんだね」と言われたいと思う。きっとこの気持ちを共感されたい、と形容するんだと思う、けど、多くの人がいう「共感」とニュアンスが違うのかもしれない。


そうはいっても他者が期待している行動や反応をしようと努めているんだと思う。そうしないと文句を言われるから、文句を言われたくないから人の期待通りに動きたいのだ。相手のためじゃない、自分が傷つきたくないだけだ。ありのままで生きていると「お前はなんて酷いやつだ」と言われるのだ。それは嫌だ。私は酷い人間になりたくはない。できれば人と手を取り合って笑いあって仲良く生きていきたい。人を攻撃したくはない、傷つけたくはない。できる限り寄り添いたい。だというのにそれができない。考え方の問題か?感性が悪いのか?歪んでいるのか?なぜ?

寄り添いたい??それはいらないな、別に寄り添いたくはないし寄り添われたくもない。違う、ニュアンスが違う。お互い「ふ〜んそうなんだ」程度の寄り添い。過度な干渉はせず、かといって否定はせず、かといって肯定もしない「ふ〜んそうなんだ」が一番理想的だ。そういうのがいい。私は、あくまでも、あくまで、私は。

考えたところできっと今の所私が心から人と繋がれることはないんだろうなと思う。耳障りのいい言葉を取り敢えず言ってみて、取り敢えず笑ってみることしかできず、挙句己の気持ちや感情をグイグイ押しつぶし、だから「なんでもいい」「どうでもいい」と切り捨てることしかできないのだろう。

相手との心の繋がりが掴めないために表面上の反応に頼るしかない。優しく振る舞うこと自体は「嘘」ではないが、相手がその表面だけを見てしまうことで「本心がない」と誤解されるジレンマにいる。そして人は表面上しか見れない生き物で、それが悪いわけではなく、普通なのだ。だからきっと「ドライな人」「無関心な人」とラベリングされてしまう。この繰り返しが他者との距離感をさらに難しくして、私自身も他者との距離感がどんどん分からなくなっていった。

「関係ない」「どうでもいい」と、関心を持つことで起こる混乱や消耗を避けたいという無意識の心理がきっとこの言葉の節々に隠れているのだ。そしてどれだけ努力しても他人を理解できないという諦めとコンプレックスが積み重なって「他人を知ろうとしない」に繋がり、余計他者との間に大きな溝ができていく。

どうでもいいわけではないのだ。どうでもいいとしか思えない。それを感じ取る方法がわからない。

私だって、貴方と心を通わせてみたい。

それすら面倒くさいから手っ取り早くさっさと突き放すのだ。きっと心を通わせられたら気持ち悪くて体調不良になるだろう。気持ち悪いのだ。人と心を通わすという言葉が、行為が、心底。コンプレックスからくる認知的不協和だ。

そのはずだ。私は人と心を通わせたいと思っているはずだ。人と心を通わせたいと思うべきだ。きっと、おそらく。などと思っている時点で「心を通わせたい」と思っているのは表面的なものかもしれないし、そもそも思ってすらいないかもしれない。

人と心を通わせたいと思っている方が、きっと人間的で、正解なんだと思う。

面倒くさいな。そのループだ。

12/23/2024, 5:00:44 PM