「3月19日のお題が『胸の高鳴り』だったわ」
今回も難題がやってきた。
某所在住物書きは呟き、アゴと首の境界(すなわちいわゆる頸動脈)に親指を当てながら、
某防災アプリで強震モニタを確認していた。
胸の鼓動は、胸より手首や頸部の動脈で数えた方が分かりやすい。脇の下は少し難しい。
地震を地球の鼓動とするなら、その頸部や手首はどこだろう?プレート境界か、もっと別の場所か。
「胸の鼓動を、つまり脈拍とするなら、鼓動が早くなるのは運動後とかストレス下とか、酒飲んだ時とか。何かの病気が隠れてたりもするらしいな。
逆に遅いのは睡眠時とか、リラックス時とか?」
防災アプリから離れて、画面はネットの検索画面へ。
調べてみると、乳児は大人より脈が早いらしい。
――――――
最近最近の都内某所、某アパートの一室、朝。
部屋の主は雪国出身者で、名前を藤森といい、
その藤森の部屋、リビングルームで、
藤森の職場の後輩の高葉井が申し訳無さそうに、
ちょこん。椅子に座り小さくなっている。
テーブルの上には重陽の節句に合わせて、栗ご飯と、豚こま肉入りのナスの揚げ浸し。
口内をサッパリさせるため、食用菊のおひたしと、キク科のハーブティーも添えられている。
「で?」
キッチンからテーブルに戻ってきた藤森。
カボチャのミルクポタージュを持っている。
「予定は?」
…――時間は昨日の昼までさかのぼる。
藤森の後輩たる高葉井はその日、リメイク・アップサイクルショップに出していた昭和レトロな学生カバンを店員から受け取って、夢見心地。
彼女が追いかけているゲームの原作者が、彼女の推しているキャラクターおよび所属組織のビジネスバッグについて、「アレのデザインはこれが元ネタだ」とSNSに投稿したのだ。
それをひとつ、普段使いしやすいよう、ショルダーバッグとして取っ手を付けてもらったのである。
『私、ツー様とおんなじバッグ持ってる。漫画版ルー部長とおんなじショルダーバッグ使ってる』
わぁ。ヤバい。高葉井の心はハミングして、胸の鼓動はテンポが速まり、なにより、口角が上がる。
『どうしよ、どうしよ。マジヤバい』
材料費と取っ手取り付けの技術料こそ高額であったものの、気にならぬ。至極些細。些事である。
今日はちょっと良いケーキ買って、ちょっと良いチゥハイかお茶かコーヒー買って、お祝いだなぁ。
幸福真っ只中の高葉井は贅沢用のスイーツ店でキューブケーキを2個購入して、
自宅のアパートのドアを開け、
今度は、胸の鼓動がじわじわ凍り止まる。
冷蔵庫として使っているポータブル保冷庫の音が聞こえない。 保冷庫が稼働していない。
『あるぇ?』
「ネットで聞いたら、『そもそもポータブルは長期間通電し続ける想定じゃねぇんだわ』って」
「そうか」
「でも先輩、ポータブルの物持ち、良かったよね」
「そうだな」
高葉井は焦った。ポータブルゆえに容量は8リットルと少ないが、その中には牛乳やら卵やら、なんなら今夜食べるための豚こま肉も入っている。
『どうしよ』
一度電源を切って、入れ直して、保冷庫の稼働音をよくよく聞くと、時折音が小さくなったり元に戻ったり。なにかおかしい。
『これは、買い替えかな』
ネットショップを確認した。1万少々の小型冷蔵庫は、6〜9営業日でなければ発送されない。
すぐさま保冷庫を開けて、冷気を確認し、食材の傷み具合を調査した。 まだ十分涼しい。冷たい。
保冷庫が故障したのはつい先程なのだろう。
『どこかに、食材避難させなきゃ!』
高葉井は先輩の藤森に、緊急相談のメッセージを送信した。藤森は日頃から、食費や電気代の節約において、持ちつ持たれつの関係であった。
庫内の食材を持っていけば、助けてくれるだろう。
――…「ひとまず今日と明日、お世話になります」
テーブルの前で小さくなっている高葉井。申し訳無さそうにぽつぽつ、頭を下げて呟いた。
「あと、可能なら、明後日も……」
「つまり2〜3日でアレを使い切れば良いんだな」
藤森はただ淡々と、前日まで高葉井の保冷庫に入っていた食材入りの弁当を、高葉井本人に渡す。
「朝飯は、手数だが、ここに取りに来てくれ。そのとき一緒に昼の弁当も渡す。夜はどうする?」
お前の部屋に届けようか?それとも夜くらい自分で作るなり買うなりして食べる?
藤森は高葉井からの返答を聞きたくて顔を上げ、
「ここで食べる、お世話になります……」
三度目のお題回収。胸の鼓動が一瞬だけトン、と跳ねて、すぐまた正常な静かさに戻った。
「ここで食べる了解。それなら、2日で十分だ」
9/9/2024, 3:04:38 AM