「凍てつく星空」
ぼんやりと、瞼を開けた。
どうしようもないほどに、広がった世界。茫然と、なすすべもなく。
それすらも、自分が生きる世界なのはわかっていて。それでいて、どこか息苦しい。
……きっとそうなのだ、と。皆、そう思っているのだと、信じていたい。であれば、否、でなければ、自分が孤独に感じてしまうから。
分かりきったことがぐるぐると頭に駆け巡り、自問自答して原点に返る。何の正しさも優良性もなく繰り返して、時間のみが過ぎ去っていく。
そんな薄暗い世界が、自分を取り巻いていた。
カツリ、といささか靴に合わない音が体に響いた。重たい体を前へと動かすたび、脳が揺れるような錯覚に陥る。人間を受け入れてくれるはずの場所はどこか素っ気なくて冷淡で。
真夜中の高速道路、サービスエリア。ありがとうございました、という感謝のような定型句のようなそれが、耳から耳へと過ぎ去っていくのを感じた。同時に、聞きなれた機械音が鳴り、自動ドアが開く。
ドアの空いた途端、凍てつくような風が体を包んだ。小一時間感じていなかった寒さに足が竦む。苦しいほどに、錆びれたように、肺が凍りつくのを白く染まった息が体現している。乾いた空気には、速くなった自分の鼓動すら、響き渡るようだった。
ゆっくりと歩を進める。どうにもこうにも、こうしているわけにはいられないのだ。自身の止めている車のもとへと、不明瞭ながらも、確実に、一歩ずつ。ゆらりと体が揺れるたび、どことなく神秘さを感じた。
なのに、なぜだろうか。色のない街灯が自分を照らし、遠くに光る、眩しいほどに彩られたネオンがまざまざと自己主張を始める。街を騒がすように煌々と。
いつもだったら受け流せるはずのそれが、今はどこか鬱陶しかった。自分の五感に流れる全ての感覚が煩わしかった。
自分の気持ちが不安定なのはわかっている。波風が立ち、心が荒んでいるのが自分自身で感じられるほどに、心底穏やかではいられなかった。
……本当に、気味が悪い。いつから人間は高慢になったのだろうな。そんな、どうでも良い悪態を付いて、苦しくなってため息を吐く。肩が一緒に上がって、下がる。まるで情けなかった。恥ずかしかった。
そんな自分の気持ちとは裏腹に、世界はこのまま巡っていくのが憎らしくて。自分もそれに乗らなければいけないのが、卑屈で、忌まわしい。
ぐちゃぐちゃになった感情を、どうにも抑えきれずに剣呑になっていくのが、それらを助長しているようで。やりきれなさが心を巡り巡る。
ああ、と思うがままに、空を見上げた。辺りを見渡すためだけに作られた電灯が視界に映り、思わず目を細めて。
そして、気づいた。
一つ、星が見える。飛行機ではない。恐らく、ヘリコプターなどの飛行物ではない。確かに、一つの星である。
まるで見えるものではなかった。目を細めなければ見えないような。ただ見ただけではすぐに見落としてしまうような、白く光る星。
その瞬間に、何かがふと、胸のなかに溜まっていたそれらの存在を感じなくさせた。
……そうだった。自分は、星が好きだった。空を見るのが、好きだったのだ。
星をまともに見なくなったのは、いつからだったか。恐らくきっと、自分が、世間的に都会と呼ばれるような街に住み始めてからだろう。
何か特別な時事があったわけではない。ただ周りに押し流されて、適当に生活し始めたあの時から、自分が見えなくなったのだ。
存在自体が必要的に肯定されうる世界。自分たちのために他人を肯定して、それでいて彼らの本質を見ようともせず、まるで道具である風に扱い続ける空虚さ。
それらの中にいる自分という存在が、まるで華々しくも、一瞬で散って行く花火のように感じられた。花火の後もなお残る煙のように、滞留する残り香が自分を空しくさせた。
まるで生きる意味が感じられない現代社会。よく言われることではあろう。でも、それ以上に、自分たちの問題のような気がしてならなかったのだ。自分たちが生み出したもののせいで、そうなった気がして。
あの頃は、星が好きだった。と、まるで何かに感銘を受けた時のようにその言葉を反芻する。好いた理由は単純だ。星が、唯一の自然物であるから。
誰かに言えばまず批判されるであろう思考。「唯一、とまで言えるものか、海や森、川、虫……そういったもの全ては自然ではないか」ときっと言われるのが常だろう。
だがどうか。人間は大地を壊し、木々を、動物を殺し、全てを人工物に置き換えていく。それが当たり前とされた世の中で、星だけはそれがない。星だけには、人の手が届かない。確かに見える空は自然ではないけれど、星そのものだけは、どうにも置き換わることのない絶対的な自然物だ、と言えるのではないだろうか。
誰にも理解してもらえないのも当然だった。理解されるはずもない。されたくもない。そこらに生える木々を「風流だ」などと言って眺めているような人間たちだ。
「自然」とは、そのまま、「おのずからできたもの」を指すはずだ。誰かに助長されず、或いは助け合いながら存在することを目的として生き続ける、それだけの存在のはずだ。
なのに、今の「自然」はどうだろう? 自分達の利益のために、それを繁殖、時には科学技術で変容させ、市場に出す。環境保護などと銘打って、自分達の手で壊したものを、それらで壊れないように置き換え、保全活動を行う。
風流心なんてあるはずがないのだ。あれは、人工的に作られた自然だから。人工的に作られたものたちが人工物を敬愛する。まるでどこかの狂ったおとぎ話。ただの一人芝居でしかない。
それでなお、皆それを正しいと言う。美しいと言う。果たしてそれが本当か? 本当の自然物に触れられないからこそ、正しいと思い込んだだけのような気がしてならなかった。気付かないうちに底に沈んだ澱のように、それが積もり積もって自分を苦しくさせて行く。
だからこそ星が好きだった。何の目的もない。ただ存在することだけを正義としてそこに存在する。それが、綺麗だった。素敵だった。
それすらも汚そうとする人間たちの意図が分からなかった。事実、月や火星は、そういった自己権利欲によって、"整備"されつつある。それすら、正しいと言えるのかどうか。甚だ疑問でしかなかった。
いつの間にか、それを忘れてしまっていた。しんしんと積もっていく澱に、錆び付いて取れなくなったそれに気を取られているうちに、そんな世界など、目にも入らなくなっていたようだった。
それもこれも、自分がこういった場所に来てからだ。こうして、存在を確立してからの話。まるで星の見えない都会では、見ようとする気力さえ、削がれていくようで。
それが淋しさのような悲しみと納得感のような安らぎを携えていた。苦しさの中にある色のない希望のようなもの。自分はこうして考えられているだけましなのかもしれない。なんて。
もう一度、とでも言うように冷たく乾ききった風が吹き、体が震え、両の二の腕に手を当ててさする。まるで寒い。本当に、季節はどこへ行ったのだか。
「これだって、人間のせいなのだけれど」と性懲りもなく言葉が浮かぶ自分に、呆れるようにため息を吐いた。いつの間にかたどり着いた車の屋根の縁に手を当てる。放置していた人工物は思った以上に熱を奪うようにできていて、手の平に痛みが走る。
どうにもなく思うこともなく、車に乗り込んだ。鍵を挿してエンジンを掛けて。いつもと同じ動作をして、いつものようにハンドルに手を置いた。何も変わらない日常。きっとこれからもこれまでと同じように、紡がれては消えていくのだろう。
そして、取り留めもなく、ふと、窓越しに空を見上げた。
凍てつくような寒空に、星が瞬く。吹き荒れる風が、閉め切った窓でも関係ないと威圧的にビウと音を鳴らす。
──ああ、やっぱり、冬空は綺麗だ。
遮るものもなく、人間らしさもなく、ただそこで高々と光り輝いている。誰が為でなく、存在していることが存在意義。その孤高さが、素晴らしかった。
それだけが、どこまでも美しかった。
12/1/2025, 10:17:09 PM