私が幼かった頃、毎年晩秋になると母親と母の兄一家は私を愛知県からお隣の長野県へ、りんご狩りに連れて行ってくれた。
国道151号線、山道のドライブはくねくね道。酔いやすい私は今でこそ酔い止めを飲んで道中は眠る、という技を編み出しているが、その当時は子ども用の酔い止めがなかったのか、飲ませたくなかったのか、丸腰でくねくね道に挑戦させられ、毎年のように車酔いをしていた。
それでも、標高が高くなると枯れ草が雪に覆われ、やがて車窓から見える畑も雪に覆われる。
雪景色にわくわくし、飽きることない雪原の眩しさに嬉しくなる。
飯田から中央道に乗れば南アルプス山脈の雪景色が続き、手前はりんご畑がどこまでも拡がる。
否が応でもりんご狩りへの期待が高まった。
「こんにちは」「こんにちは」
毎年お馴染みのりんご農家のおじちゃん、おばちゃんとにこやかに挨拶を交わす。おじちゃんは白髪短髪、薄い茶色のサングラスをかけた中肉中背で筋肉で腕が太い人。おばちゃんは黒髪白髪混じりのショートカットでサイドの髪を耳にかけた、女性にしては背が高くキリッとした感じの人。
りんご畑の土は靴越しに柔らかくふんわりと沈む。りんごの甘酸っぱい匂いが周囲に強く漂う。
「準備してたよ」とブルーのレジャーシートの上には、薄緑色のプラスチック製のカゴ、ハサミ、ナイフ。
りんごの美味しい見分け方を習っている私だけど、おばさんはまた美味しいりんごの見本を見せてくれて説明してくれる。
艶々した大きな紅いりんごは、ふじ。大好きな品種。
「りんごのお尻を見てね。深く窪んでて黄色っぽいものだよ」
ナイフでスパッとりんごを縦に切ると、果汁が飛び、蜜がいっぱい入って、甘酸っぱい匂いが強くなる。
「美味しそう!」
「頑張っていっぱい食べてね」
タートルネックのセーターに厚手のジャンパーと内側が起毛処理してあるズボン。厚手の靴下。
防寒対策バッチリで着膨れしたままら青空とりんごの葉やりんごのお尻を眺めながら、手を目一杯伸ばしてりんごを斜めに持ち上げると、パキッと小君良い音と共にりんごの茎がポッキリ折れた。
ちょっとベタベタするこの感じは、蜜がいっぱい入っててきっと美味しい。
りんご農家のおばちゃんは忙しく接客中で、おじちゃんのところへ見せに行く。
「これ、美味しいよね!?」
おじちゃんはりんごのお尻をチラッと見て「美味しいよ」と白い歯を見せて笑った。
「やった!」
そのまま私の家族が座るレジャーシートに座って、りんごの皮を剥いてくれる。皮が陽に透けそうなほど薄く、私は感嘆のため息をこぼす。
おじちゃんは私の視線に気づいて嬉しそうに笑った。
正午近くになり秋の日が差し出すと暑くなってジャンバーを脱ぐ。
湿度の低い爽やかな風が気持ち良い。
蜜の入ったりんご、2個目を齧る。
「梨、剥いてきたよ」
その声に振り返ると、おばちゃんが大皿に山盛りの梨を抱えて持っている。
梨の甘い香り。
梨の断面から水滴が滲んで、食べる前から瑞々しい梨だとわかる。
「いただきまーす」
次々と大皿に手が伸び、大きな梨を手に取る。
程よく冷やされた梨は、大きな口で齧っても、まだ半分も減っていない。そしてとても甘く、口の中で水分が弾けた。
「美味しいっ!」
「うんうん。今年は梨もりんごも甘くて美味しいから、たくさん食べてね!」
「うんっ」
親友の姪っ子という理由だけで、りんご狩りなのにお腹いっぱいになるまで梨をサービスしてくれる。
帰り際、おばちゃんは私にスーパーの袋いっぱいに詰めた梨をプレゼントしてくれた。
両手で抱えて持ってもズッシリと重い。
「ありがとうございます!!」
「また来年も来てね」
「うんっ」
毎年交わした約束は、私が高校を卒業するまで続いた。
それから10年ほどは、私は学業や仕事が忙しく、毎年恒例のりんご狩りに参加できなかったが、母と母の兄夫婦は自分の息子夫婦や孫を連れてりんご狩りをしていた。
親が長野県から帰宅すると、家の寒い勝手口はりんごと梨の甘酸っぱい匂いで充満し、私はあのりんご狩りの風景を思い出した。
りんごの皮も梨の皮も剥いて食べるが、あのおじさんのように陽が透けるほど薄く長く剥くことはできない。千切れた皮を見ては、「もっと薄く剥くんだよ」と教えられた高校生の頃を思い出す。
その後、私の母が亡くなり、母の兄が亡くなり、恒例のりんご狩りは途絶えてしまった。
ただ、りんごや梨が美味しい時期になると、りんご農家のおじさんおばさんは、母の兄の奥さん--叔母さん--へたくさんのりんごと梨を送ってくれた。
「持ちにおいで」と言われて持ちに行き、段ボールに詰められたりんごをひっくり返してお尻を見る。黄色っぽく、窪み、りんごの表面がペタペタしてる。
家まで1時間の距離を待てなくて、叔母さん宅で梨の皮を剥いて手づかみで食べる。変わらず瑞々しくて濃厚な甘味。だけどどこかサッパリしてて美味しい。
「心を込めて育てました」
段ボールに入れられた手紙のコピーに笑みが溢れる。
「電話したら美味しかったって言っておいてね」
「わかった」
甘い匂いの段ボールを抱えて車に載せる。
匂いと共に1時間、家に帰れば旦那と子どもたちが競うように食べるのだろう。
あの子たちは、りんごの皮を剥かない方が美味しいというこだわりがある。
それも素敵なことだよね。
私は笑顔でハンドルを握った。
数年前、りんご農家のおばさんが認知症状が進んで施設に入居したと、私の叔母さんから聞いた。
女性にしては背が高くキリッとしているけれど、梨をたくさんプレゼントしてくれる、あのおばちゃんが。
「そっか…姉さん女房なんだっけ?」
「そう。5歳くらい上だったかな」
「若く見えるのにね」
りんご農家のおじさんおばさんは今はもう80歳を超えているはず。
あのりんご園はどうなったのだろうか?
ふかふかの土と、りんごと梨の甘酸っぱい匂いに満たされたあの場所は。
「ひとり、息子さんいたよね?」
「うん、あんたと同世代。東京で暮らしてる」
「そっか…」
歳月は流れていくんだ。誰のもとへも平等に。
仏壇にお供えしたりんごと梨はスーパーで買ってきた物。
お尻の黄色味の少ない、表面がペタペタしない、蜜が入っていないだろうりんご。
叔父さんへ線香をあげて手を合わせた。
「りんごと梨、これでごめんね」と。
そして昨年、りんご農家のおじさんが亡くなったと、叔母さんから聞いた。
薄い茶色のサングラスの下で瞳がいつも笑って、皮を剥くのが上手なおじちゃんが。
「そっか…」
「東京の息子さんが、私の番号をなんとか調べて電話をかけてくれてね。家にかかってきた電話だけど、なんか胸騒ぎがして、出て良かった」
「ホントだね」
2人、お茶を飲みながらしんみりとする。
そう言えば、りんご園は寒いからと湯呑みと急須には熱いお茶を準備してくれた。
お茶請けは小松菜の漬物。
お菓子じゃないことにビックリしたけれど、長野県のお茶請けは漬物が定番だと聞いて二度驚いたことを思い出す。
おじさんが亡くなったことに少なからずショックを受けて、その日は早めにお暇した。
もう二度と逢えないんだ。
青空に、冷たい風が木々を吹き抜け、ザワザワと葉を揺らした。
旦那がスーパーで買う梨は、収穫が早いのか緑がかって青臭い。
甘味が足りず、瑞々しさが足りず、満足感が得られない。
だけど、ごく稀に。
甘い香りのする、瑞々しく張りのある大きな黄色の梨に出会うことがある。
お尻を眺めて満足して半分に切ると、断面から水分が弾ける。
そんなとき、あの、りんご狩りに行った日のことを思い出す。
寒くて、積もる雪景色が綺麗で、梨もりんごも美味しくて、おじさんおばさんの温かな笑顔を。
もう二度と戻れないかけがえのない晩秋を。
梨
10/14/2025, 3:49:28 PM