Open App

『ココロオドル』

びり、と空気が震えた気がした。

見上げたステージの上にはただ一つ、マイクを握り立つ人影があった。彼は一見、小柄で大人しそうな男子生徒だった。地味でどこにでもいるような、大して記憶に色濃く残らないようなタイプの。

そんな彼が突然、舞台の上へと躍り出たのだ。文化祭の有志の発表なんていう陽キャの承認欲求を満たすために設けられたような場で、誰とも群れることなくたった一人で。

一体あれはどこの誰だろう。ざわつく観客たちを尻目に足早に中央へと歩んでいった彼は、そこそこに広い会場内を一瞥してからゆっくりとマイクへ手を伸ばした。目を閉じて、大きく息を吸って、それから。

次の瞬間、放たれたのは咆哮だった。

力任せに叫んでいるわけではない。
ただ、命を削り魂を擦り減らすようなその歌声を形容すべき言葉を、俺は他に知らなかった。
あの細くて小さな身体のどこから出ているのかと思うほどにパワフルなそれは、曲が進むとともに柔軟にその姿を変えていく。繊細で、けれど力強い。柔らかくて、それでいてしっかりとした芯がある、そんな歌声。

完全にアウェーだった会場は彼が歌い始めた瞬間にしんと静まり返り、苦笑を漏らし哀れみの目を向けていた観客たちは揃いも揃って彼に釘付けだった。
そしてそれは、俺も例外では無かった。
文化祭なんてつまらない。自己満足の塊だ。そんな風に内心で毒を吐きながらただぼんやりと彷徨わせていた視線は、今は一時も彼から離すことを許されなかった。

スポットライトに照らされて、彼の輪郭を伝う汗がキラキラと光る。近いはずなのにひどく遠く感じるステージの上、彼が色白な肌を仄かに火照らせながら懸命に歌う。
その姿はこの世で一番楽しそうで、格好良くて、そして何よりも綺麗なものに見えた。
それを見て心臓が、いやそれよりもっと深い所にある何かがどくんと跳ねる。

どれほど時間が経っただろうか。やがて美しいビブラートを最後に彼が一歩後ろへと下がり、ぺこり頭を下げて足早に舞台袖へと捌けていった。

その姿が見えなくなると同時に、会場を割れんばかりの拍手と歓声が包み込む。
四方八方から彼を讃える言葉が聞こえてきて、俺はそこでようやく息を吐くことができた。

鼓動の音がうるさい。あの美しい彼は一体どこの誰なのだろう。こんな気持ちになるのは、こんなにも心が躍るのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。

知りたい。彼のことを、知りたい。

込み上げる熱を逃がせる術なんて無いまま、俺は人混みを掻き分けて体育館の出口へと駆け出した。


10/9/2024, 10:24:43 AM