永坂暖日

Open App

半袖

 リアリティが売りの、仮想空間体験だった。
 目の前には果てしない雪原が広がり、一歩進めばぎゅっとした感触と共にくっきりとその跡が残る。暴れる風に乗った氷の小さな欠片が、礫のように体を打つ。髪は風にもてあそばれていた。
 けれど、指先まで凍えるような寒さは感じなかった。
「物足りないなあ」
「半袖姿で何言ってんだか」
「でも、もうちょっとリアルを感じたいじゃん?」
 月面に雪は降らない。それどころか、雨もなく、雲さえできはしない。風だって、人工的なものしかない。
 意識を丸ごと仮想空間に接続することで、この上ないリアルを感じられるというアクティビティが今の流行だった。その割に、はである。
「地球の南極の風景の再現だろ? 気温まで再現したって、誰も喜ばないよ。意識だけの接続とはいえ、下手すりゃ死ぬし」
「せめて肌寒いくらいは感じてもいいかなと思うけど……」
 むき出しの腕を自分でさする必要さえない。月面では「寒い」という状況がほとんどないから、ちょっと体験してみたかったのだが。
 物足りなさを感じながら、ほとんど色のない世界をぐるりと見回していたら、黒く小さな点が、遠くに見えた。
 何だろうと思って見ていると、だんだんと近付いてくる。全身はほとんど黒、おなかと目の周りは真っ白。オールのような翼を広げ、よたよたと歩いている。歩くのにあまり向いていなさそうな体つきだが、その姿は荒れ狂う風よりも激しくかわいい。
 その愛らしさに、半袖で南極に立つことのリアリティなんてどうでもよくなった。

5/28/2023, 2:04:42 PM