一尾(いっぽ)in 仮住まい

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→短編・どうしてですか、兄さん?

 あぁ、兄さん、煙突を登る細い煙が小川のようです。
 覚えていますか、兄さん? 昔よく夕方に散歩したことを。二人で小さな川の流れに耳を澄ませましたね。
 川底の浅い小川の音は存外に大きかった。夕方になるとピチョンピチョンと小魚たちが騒ぎだす。夕日に白銀の鱗を光らせて、めいっぱい飛び上がり、さざなみを立てる。
 どうして小魚たちは飛び上がるのかと質問した僕に、「夕日は心の隙に変な感傷を差し込ませるからね」と答えてくださいましたね。
 あなたはあの時、川でも魚でも僕でもなく、沈みゆく夕日を暗い目で見ていた。
 そうして呟いた。「心がさざめくのだろう」と。あれは独り言だったのでしょうか? それとも僕の記憶に何らかの楔を打ち込むためだったのでしょうか? 例えば、僕の中にあなたの部屋を作ろうとした、とか。
 あなたにとって夕日がどんな意味を持っていたのか、僕にはわかりません。そしてそれをあなたに問う機会も永遠に失われてしまった。
 人目を避ける僕たちの秘密の関係は、僕をあなたの葬儀から遠ざけた。火葬場の煙に見当を立てるのが精一杯だ。
 夕方の空に煙が四散する。僕の心は静かなままだ。
 兄さん、あなたの居場所は僕の中になかったようです。あなたへの想いは川を打つ魚のように刹那のものだったようです。
 僕は酷い奴ですか? えぇ、それでいいです、そのほうがいいです。
 そうでなきゃ、あなた無しで、この先どうやって生きていけばいいんですか?
 
テーマ; 心のざわめき

3/15/2025, 4:00:27 PM