※10/18投稿『光と霧の狭間で』の続きです。
水墨画の世界を旅する少年と鵺のお話。
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森を抜けた先には穏やかな湖が広がっていた。
少年が湖面に顔を近づけると、湖の底を焔が泳いでいる。少年の体ほどある紡錘型の体。表面を覆う鱗がメラメラと揺れ、尾鰭を動かす度にぼんやりと光を宿した。
『焔鯉(ほむらごい)――この湖の主だ』
少年の傍らで鵺が静かに告げる。
少年は水の中で燃え続ける焔にしばらく目を奪われていた。焔鯉が身を翻すたびに、生命の大きなエネルギーが動くのを感じた。
水場の天候は移ろいやすいのか、いつの間にか空に暗雲が立ち込めていた。
「雨が降りそうだ……」
少年が鵺の方を見ると、鵺は空を見つめて怪訝そうな顔をしていた。
『何かがおかしい。普段の雲とは様子が違う』
すぐにぽつぽつと雨が降り始めた。無数の黒くか細い線が湖面に円を描く。
少年の手に落ちた雨の雫は、指先で擦るとザラリとした質感があり、鼻に抜ける香りからそれが鉄であると悟った。
鉄の雨は水中で蠢くように渦を描き、次第に湖は黒く染まっていく。
『余所者が入り込んだか……』
焔鯉の光はもはや湖面からは見えなくなっていた。
『この国の理を、外から来たものが蝕み始めておる』
鵺の言葉が冷たい湖面の上を滑るように消える。
焔鯉が動きを止めて間もなく、空気はしんと冷たくなった。湖畔の草には霜が降り、少年の吐く息も白くなった。
鉄の雨はやがて雪となり、湖面に一瞬の白を宿してはまた溶けるように黒くなる。
少年は湖畔に膝をつき、黒い湖面をただ眺めていた。
「どうすれば焔鯉は再び燃えることができるのですか?」
『焔鯉は泳ぐことで自らの内に熱を持ち、焔として体に纏う。こうなれば焔鯉はもはや泳ぐこともできぬ』
少年の問いに鵺は悲しげな表情で答えた。
少年は冷たい鉄の湖に手を浸した。指先にまとわりつく鉄の粉が、まるで意志を持ったように少年の指を伝って腕へと這い上がってくる。
少年は思わず手を引こうとするが、鉄の湖はその手をつかんで離さない。
「うわっ!」
少年の叫び声で、鵺は咄嗟に少年の腕に蛇の尾を絡ませた。少年の腕を引きながら、鉄の侵食を食い止める。
『少年、気をしっかり持て! 貴様は人の子。この世界を変えられる存在だ』
その瞬間、少年は湖の底からドクンと熱が波打つのを感じた。
「焔鯉……、まだ生きてる」
少年は心を落ち着かせ、熱の波の源を辿る。次第に意識は湖の底へと沈んでいき、暗い闇の中でわずかに燃える灯火を捉えた。
――もう一度焔を宿して……。
少年は祈る。次第に焔鯉の熱が温度を増していく。
『共鳴した。我も力を貸そう』
鵺の声が湖中に響く。蛇の尾が熱を帯び、淡墨の渦を描きながら少年の腕を伝う。
少年の祈りが淡墨の渦に包まれ、焔鯉の灯火に触れた途端、再び大きな熱がドクンと波打ち、湖面が大きく盛り上がる。
次第に灯火は大きくなり、焔鯉の輪郭がはっきりと浮かび上がる。その焔が大きく渦を巻き、一本の柱となって湖面へと打ち上がる。周囲の鉄が焔の渦に引き寄せられ、湖は元の色を取り戻し始める。
『持っていけ、私の力のすべてを』
鵺は持てる力の全てを焔の渦に捧げる。湖面が弾け、雪の降る空に龍が姿を現した。黒き鱗を纏い、鈍い光を放っている。
少年は強く祈った。
――燃えて!
一際大きな波が立ち、龍の体から焔が立ち昇る。黒い鱗が焔の勢いに乗って空へと散っていく。天へと昇っていく龍はやがて雲の中へと消え、暗雲は白き空にかき消された。
澄んだ湖に浸かる少年の腕には、蛇の紋様が黒く刻まれていた。少年は辺りを見渡すが、鵺の姿が見当たらない。
「ここだ……」
輪郭を持った声に振り返ると、そこには一人の男が立っていた。虎皮の衣服に身を包み、蛇の剣を持つ男。
「その姿は……?」
「どうやら妖力を使い果たしたようだ。心配はするな。少し休めばすぐに力は戻る」
鵺らしき男は頭を小さく掻きながらわずかな笑みを浮かべた。
湖面に小さな光の筋が泳いだ。新たな主の誕生である。
いつまでも消えない焔がこの湖をこれからも守り続ける。
#消えない焔
10/27/2025, 10:22:11 PM