海に行きたい、彼女は度々そう言った。
港町出身の彼女にとって、海は決して特別なものではなく、それこそ5分も歩けばそこにあるようなものだったそうだ。
それがなんの因果か、海無し県に家を構え、海に興味のない男と結ばれて、海とは全く縁のない生活をするようになった。
そうなってはじめて、彼女は自分にとって、海が大切な存在であることに気づいたらしい。事あるごとに海に行きたい、と言うようになった。
しかしここから最寄りの海までは、車で軽く四時間はかかる。出不精の二人にとって四時間は遠すぎた。結局彼女の願いを男は毎回聞き流し、彼女自身も積極的に主張を押し通そうとはしなかった。
そんな暮らしを続けて何年経っただろうか。彼女に病が見つかった。進行の早いもので、最早手遅れだった。彼女の体力は急速に失われ、医師も匙を投げた。
彼女の希望で積極的治療は中断し、緩和療法のみ行うことにした。部屋の中でへらへらと笑う彼女は、男にはいつもどおりに見えた。
海に行きたい、久しぶりに彼女の口からその言葉が飛び出した。片道四時間のドライブ、今の彼女にはとても耐えられない距離。
それでも、男は車を出した。最期の願いとわかっていたから。
こうなる前に連れて行ってやればよかった、後悔が胸に広がる。そんな男の心中を知ってか知らずか、彼女は助手席で静かだった。ずっと、ずっと静かだった。
(お題:海へ)
8/24/2024, 3:17:41 AM