84.『誰もいない教室』『雨と君』『仲間になれなくて』
1日の業務が終わり、夕暮れ時。
職員室で明日の授業の準備をしていると、先輩から声をかけられた。
「今、暇だよな?
校内の戸締まりを確認してこい」
『今忙しいんですけど』という言葉をぐっと飲み込み、笑顔で頷く。
教師というのは体育会系の世界、先輩の言うことには逆らうことはできない。
恨みがましい視線を先輩に送りながら、冷房の利いた職員室に別れを告げた。
涼しかった職員室とは違い、校内はまだ暑かった。
9月になって涼しくなったとはいえ、校内が蒸すように熱い。
思わず地球温暖化に思いを馳せるが、一教員である自分に何ができるのであろう。
自分の無力さを噛みしめながら、見回りを始めようとした、まさにその時だった。
コツン
誰もいない教室から音がした。
すでに下校時間は過ぎており、生徒は一人もいない。
なのに物音がするのは、どういうわけか?
正体を確認する前に、頭の中でシミュレーションをする。
①ほかの生徒たちと仲間になれなくて、居場所を探している『不良生徒』
②この学校に眠る徳川埋蔵金をさがしにやって来た『不審者』
③学校で運動会を始めた『幽霊』
……うん、ろくな選択肢が無いね
正直聞かなかったことにしたいけれど、聞いてしまった以上無視するわけにも行かない。
意を決して物音がした教室へと向かう。
意を決して扉を開けると、そこにいたのは――
④開けっ放しの窓から侵入した河童
だった。
って、おい!?
いや、なんで河童!?
これ、どうすればいいの?
こんなの学校で教えてもらわなかったよう……
目の前の光景にオロオロしていると、河童が苦しそうに呻いた。
「み、水をくれ」
ドサリと河童が前のめりに倒れる。
どうやら河童は、調子が悪いらしい。
助けるかどうか迷ったが、困ってる人(?)を見捨てることは出来ない。
恐る恐る近づいて、熱中症対策で持っていた水筒を差し出す。
「どうぞ」
すると、河童はひったくるように水筒を奪い、器用に水筒の蓋を開け――
――頭から被った。
一瞬『飲まんのかい!』とツッコミそうになったが、よく考えれば相手は河童、人間の身体とは仕組みが違う。
河童の頭には皿があり、それが渇けば死んでしまうと聞いたことがある。
それを考えれば、頭から水を被るのもやむを得ないし、責めるのは酷というものであろう。
河童の周りがビショビショになっている事を除けばだが……
「助かった。
命を助けて頂いたことについて、礼を言わせていただく」
そう言って河童は恭しく頭を下げた。
最初見た時と違い、今の河童は溢れんばかりの生気に満ちていた。
命が助かったというのは、嘘ではないようだ。
「助けてもらった礼をしたい。
何でも言ってくれ」
「お礼、ですか……?」
私は困ってしまった。
助けてもらったので、恩返しがしたい。
その思考は理解できる。
しかし、私はただの一般庶民。
神様ならともかく、河童に叶えてもらうような願いなんて持ち合わせていない。
どうしようかと考えて、適当に流す事に決めた。
「いえ、気にしないでください。
困った時はお互い様ですよ」
そう言って、営業スマイルをする。
これでウヤムヤに出来ればよかったのだが、河童は納得いっていないようで、しかめっ面をしていた。
「そうはいかない。
礼をしないと、恩知らずと笑われてしまう」
「そう言われても……」
「何かないか?
今困っていること」
「困っていることてすか……」
今まさに河童に絡まれて困っているんですけれど。
さすがに口には出せないけれど、さてどうしたものか……
そんな事を考えつつ、頬を伝う汗を拭った時あることを閃いた。
「そうだ、最近暑すぎるんですよね。
数日でいいので涼しくできませんか?」
残暑の厳しさを思い出しながら聞いてみる。
流石に河童がどうこう出来るとは思わないが、聞くだけならタダだ。
それに望みが叶えられないと分かれば、案外引いてくれるかもしれない。
だが私の予想に反し、河童はニンマリと笑った。
「承知した」
河童は上空に手を突き出したかと思うと、突然奇声を上げ始めた。
「カーッパカパカパカッパ、カパパ、カッパッパ」
笑うべきか怒るべきか。
悪い冗談みたいな河童の呪文を聞いて、またしても混乱している私。
非難を込めた視線を送るが、河童は臆することなく言った。
「外を見てみろ」
この河童、実はとんでもない奴だったらしい。
河童の言葉に従い外を見ると、さっきまで雲一つなかったのに雨が降っていた。
「さすがに気温を下げることはできん。
しかし、雨を降らせればいくばくか涼しくなるであろう」
最初はしとしと降っていた雨は、すぐにザアザア降りになり、夏の暑さを洗い流していった。
この調子なら、二、三日は涼しく過ごせるはず。
期待していなかったのだが、ここまでしてくれるとは予想外だ。
感謝を伝えようと振り返るが、そこには誰もいない。
最初からなにも無かったかのように、全ての痕跡が消えていた
さっきの事は夢だったのだろうか……
しかし河童がぶちまけた水筒の中身が、それは本当にあった事だと教えてくれる。
「サンキュー、河童」
窓の外を見ながら、河童に向かって呟く。
おそらく聞こえていないだろうけど、素直に感謝を伝えたい気持ちだった。
こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうか。
夏の暑さだけでなく、私の心の中の澱みまで洗い流すなんて、あの河童は只者ではない。
今日経験した、雨と君の事は忘れずに覚えておくことにしよう。
そうすれば、辛い事があってもきっと素直なままでいられるから。
去ってしまった河童に思いを馳せていると、誰かが走ってくる気配がした。
「あ、こんなところでサボってる!」
先輩が鬼のような形相で睨んでいた。
「窓を閉めといてって言ったじゃない!
あーあ、雨が入って来てる……」
「すいません……」
「謝る暇があるなら窓を閉める!」
「はいいいい」
先輩に叱責され、慌てて教室の窓を閉める。
「まったく、アナタはすぐサボるんだから……
ほら、そっちも開いてる」
「すぐに閉めます!」
先輩の怒号を背に、次の窓へと走り出す。
なんでこうなった?
さっきまで涼しくなって喜んでいたのに、走り回ってもう汗だくだ。
こんなはずじゃなかったのに……
涼しい校内を、ゆっくり見回りしたかっただけなのに。
こうなりゃヤケだ。
とっとと終わらせて、とっとと帰ろう。
「これで最後!」
最期の窓を閉める時、一瞬だけ河童が見えた。
雨の中、子供の様にはしゃぐ河童を見て、私はあることに気づいた。
「あ、傘持ってきてない」
9/13/2025, 2:36:37 PM