今日のテーマ
《目が覚めると》
期末試験が近くなり、わたしはすっかり睡眠不足が続いていた。
日頃から勤勉に予復習をしていれば試験間近で慌てることもないというのは分かっていても、それをきっちり実行できる学生が一体どれだけいるだろう。
わたしも例に違わず、一夜漬けとまでは言わないけど、試験が間近に迫って来てから詰め込み学習をして何とか乗り越えるタイプだった。
まだ梅雨も明けていないのに、朝から気温はかなり高めで、真夏みたいに日差しも強い。
寝不足の体に追い打ちを掛けるような気候のおかげで今朝は食欲もなかった。
道の先では熱されたアスファルトがユラユラ陽炎を揺らめかせていて、見ているだけで体力を奪われそうだ。
「はよ。すっげークマだな」
「おはよう。期末が終わったらちゃんと寝るから」
「まさか、それ試験まで寝ないって話じゃないよな?」
「さすがにそこまではしないよ」
校門を潜って昇降口に向かっていると、クラスメイトから声をかけられた。
出席番号が近くて席も近いことからクラスの中では比較的よく話す男子だ。
この時間にここで顔を合わせるのは珍しいなと思いかけたところで、試験間近だからかと思い至る。
運動部の彼は、いつもだったらこの時間は朝練の真っ最中なはずだけど、試験間近になるとどの部活も休みになる。当然朝練もないわけで、だから帰宅部のわたしとこうして同じ時間帯に登校しているというわけだ。
「本当に大丈夫か? 顔色めちゃくちゃ悪いけど」
「そう?」
心配そうに覗き込まれて、大丈夫だよと軽い調子で答える。
ちゃんと笑えてるかな?
心配かけたくなくてそう言ったものの、実はさっきから少し気持ち悪い。
顔色が悪いと言われたことで、気のせいだと思おうとしていた体調の悪さを改めて自覚することになったのもあるんだろう。
「朝飯ちゃんと食ってきたか?」
「食べたよ。お母さんみたいなこと言わないでよ」
尚も言い募る彼に茶化すようにして返す。
嘘はついてない。ゼリー飲料を飲んできたし。
彼はまだ心配そうな気配を漂わせていたけど、わたしが大丈夫だと言い張ったからか、それ以上言及してはこなかった。
他愛ない雑談をぽつりぽつりと交わしながら昇降口に辿り着き、下足箱から上履きを出して靴を履き替える。
靴を取ろうと屈んだところでグラグラと視界が揺れて、気持ち悪さに立っていることもできなくなり――
目が覚めると、そこはベッドの上だった。
周囲は淡いクリーム色のカーテンで仕切られていて、微かに消毒薬の匂いがする。
保健室だろうか。わたし、どうしたんだっけ?
ぼんやりしたまま身動ぎすると、シャッと音を立ててカーテンが開かれた。
「ああ、起きた? まだちょっと顔色が悪いかな。気持ち悪くない?」
「大丈夫です」
優しく声をかけてくれたのは年配の養護教諭だった。
起き上がろうとするのを手振りで留められて、あかんべーをする時みたいに下瞼を引き下げられる。
「典型的な貧血だね。寝不足に、朝ごはんもちゃんと食べてきてないでしょ」
「一応、食べました」
「一応ねえ……じゃあ聞くけど、朝は何食べたの?」
「……ゼリー飲料」
さすがに先生は誤魔化されてくれない。
追撃するように問われて白状すると、そら見たことかと苦笑された。
「試験勉強もいいけど、倒れて試験受けられなかったりしたら元も子もないでしょ」
「はい」
それはまったくその通りなので返す言葉もなく身を縮めて項垂れる。
今日が試験当日じゃなくて本当に良かった。
せっかく徹夜してまで詰め込んだのが水の泡になるところだった。
そんな風に反省していたところで、ふと、自分がどうやって保健室まで来たのか覚えがないことに再び血の気が引く。
「せ、先生、わたし、どうやってここまで……」
恐る恐る聞くと、先生はそれはそれは良い笑顔で教えてくれた。
彼が、お姫様抱っこでわたしを抱え、血相を変えて保健室に運んできてくれたということを。
倒れた時にすぐに支えてくれて頭は打っていないこと、顔色が悪かったから貧血か何かじゃないか、などということをテキパキ報告したらしい。
おまけに近くにいた他の同級生に自分とわたしの鞄を持ってきてくれるように頼んでくれたそうで、言われて横を見れば確かにわたしの鞄がベッドの側の椅子に鎮座していた。
「さすがに運動部で鍛えてるだけあるわね。昇降口からここまで運んできたのに全然危なっかしいところもなくて、そのまま凄く丁寧にベッドまで運んでくれて。まるで少女漫画に出てくるヒーローみたいだったわ」
「ソウデスカ」
「もう少し休んでていいけど、落ち着いて教室に戻ったらちゃんとお礼言っておきなさいね」
「ハイ」
恥ずかしさのあまり手で顔を覆ってカタコトで返事をするのが精いっぱい。
貧血を起こしてなかったら、きっと盛大に赤面していたことだろう。
あの時間帯なら昇降口にはきっと他にも何人も生徒がいたはずで、どんな噂になっているか考えただけで頭が痛くなる。
実際には人命救助みたいなものだから、そこまで大袈裟に冷やかされるようなことはないと思いたいところだ。
あんなに必死になって詰め込んだ歴史の偉人や数学の公式はもう頭から完全に零れ落ちてしまっていて。
代わりに、彼のことばかりで頭が埋め尽くされていく。
この日を境に、わたしにとっての彼は『仲が良くて話しやすい男子』から『意識する男の子』に変わってしまったのだった。
7/11/2023, 7:10:38 AM