刷り込まれてるってわかってるんだけど。
親から「お前が〇〇みたいに生まれ変わらないかな。」とよく言われたから、「私になってしまってごめんなさい。」とよく謝った少年時代。
そして、私も〇〇が頭良くて運動良くて物腰柔らかで、同性異性からもモテたし、尊敬に値する人だと思っていたから、理想の私は〇〇だと思った。目指していた。
賛否両論あるんだろうけど。
理想の私が具体的に人物としている事は。「賛」なら、理想が近くにいて具体的だから目指しやすいって捉えられるんだろうけど。「否」なら、その〇〇という具体的な人そのものになれるわけがないって捉えるんだろうと思う。
私の中の賛否に苦しみながら過ごした少年時代があり、大人になってからも「否」が心を大きく占めているから、時々私として生きてしまった事さえ「本当にごめんなさい。」と思う。
しかし、歳月は不思議なもので。
神童と言われた〇〇が、大人になったら落ちぶれてしまったという報せを聞いた。
信じがたい事実に打ちひしがれるのと同時に、〇〇も人だったんだと思う私もいた。
結論、理想の私に近づく為の血と汗と涙を流し、たゆまる努力をすることが、一番美しいんだという事がわかった。〇〇も復活し、私も今、生きているんだからそれで良しとしよう。
理想の〇〇になれなかったけど、それでいい。その方で良いや。
5/20/2024, 12:10:11 PM