sleeping_min

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【ブランコ】

 キコキコと軋んだ音をたてて、私を乗せたブランコが揺れる。真夜中の公園でブランコを漕げるのは、大人の特権だと思う。思い切ってハイヒールで地面を蹴ると、ぐいーんと体が宙を舞う。
 終電を乗り過ごしてたどり着いた駅、そこから徒歩三分のところで見つけた、見知らぬ公園。雑然とした一戸建ての群れに紛れた、古そうな児童公園だ。このテの公園、まだ絶滅していなかったみたい。ゾウ型の滑り台やらカラフルなジャングルジムやら変な顔したパンダらしき乗り物やら、童心をそそるものがひと通り揃っている。ベンチは朽ちかけていてまともに座れなさそうだったから、ひとときの休息にこのブランコをお借りしている。なんとなく、小学生ぶりに漕いでみたくなったというのもある。だって、分別のある大人は人前で嬉々としてブランコなんて漕がないでしょう? それなら、ひと気のない真夜中のいまこそ、大の大人がブランコを漕げる絶好のチャンスじゃないですか。このチャンスと特権、逃すわけにはいかないじゃないですか。……まあ、この整備不良っぽいブランコが、大人の女の体重にどれだけ耐えてくれるかはわからないけど。
 今が夏で、そして晴れの日でよかった。クーラー対策でカーディガンを持っていてよかった。始発が動くまで外で過ごしても、風邪を引くほどの寒さじゃない。むしろ、夜の空気がひんやりしていて、アルコール入りの体には心地いい。
 満月だから、空もやたらに明るい。まあ、街灯だけでも、明かりは充分。むしろあの満月、忌々しいあいつのことを思い出させるから、邪魔に見えてくる。なんでブランコからいい感じに見上げたアングルで、存在を見せつけるように皓々と浮かんでるんだろう。なにからなにまで、忌々しいあいつそっくりだ。
 忌々しいあいつとは、同期の望月のこと。入社したときは確かに同期だった。だけど五年経ったいまでは上司だ。名字通り、欠けたることもなしと思うような完璧なシゴデキ野郎で、あれよあれよという間に手の届かない存在になってしまった。
 あいつが順調に出世する一方で、私はうだつの上がらないペーペーのまま、来月には会社を辞める。実家に帰って、怪我を負った父の介護をしながら、家業の工場(こうば)を継ぐことになる。
 今日は上司や後輩と引き継ぎのスケジュールを打ち合わせして、そのついでに飲んで、ひとり二次会でさらに飲んで、このていたらく。乗り過ごしに気づいた時点で、血の気と一緒にスッと酔いは引いたけど。ううん、真夜中の公園でキャッキャとブランコ漕いでる時点で、まだ酔ってるなぁ。
 こうなりゃ酔いに任せてヤケクソだ。私はありったけの力をハイヒールに込めて地面を蹴った。体を大きく揺らして、力いっぱいにブランコを漕ぐ。
 体が仰向けになると、真正面に満月が見える。いまなら届きそう。なのに、届かない。遠ざかって視界から消えて、また視界に入って近づく。また遠ざかる。近づく。その繰り返し。
 ぎゅっと鎖を握り込んでいるこの手さえ離せば届くんじゃないか、そんな恐ろしい考えが、ちらっと頭をよぎる。このまま体を宙に放り出せば、どこまでも飛んでいけそう。なのに、大人の分別が邪魔をして飛べない。飛んだところで、きっと、月には届かない。
 こんなに漕いでるのに。こんなに一生懸命、あいつ目掛けて、心ごと揺さぶっているのに。
 ギィギィガチャガチャと鳴る鎖がうるさい。この鎖が、必ず私を地面に引き戻してしまう。なのに、鎖から手を離せない。
 仕方がない、ブランコに乗ってる以上、私は振り子の錘だ。実家を支点にして揺れるだけの、宙ぶらりんな存在だ。
 ブランコでどう足掻いたって、月に届くわけがない。
 私がどんなに頑張ったって、望月に敵うわけがない。
 私がどんなに騒いだって、この心は望月に届かない。
 あと一ヶ月もすれば、望月に会うことすらできなくなる。
 それが悔しくて悲しくて、ただ思いっきり、ブランコを漕いだ。


 突然、ブランコの真後ろの家の窓が、ガラッと開いた。
 はっとしてブランコを急停止させ、おそるおそる振り向くと、見知った顔がぽかんと口を開けてこちらを見ていた。
「え、うそ、望月……?」
「なんかうるさい奴がいるから追い出してやろうと思ったら、まさかの金森? こんな時間になにやってんの? 近所迷惑だろうが」
「……も、望月こそ、なんでこんなとこに……」
「こっちのセリフだよ。ここ俺ん家だよ。金森もこの辺だっけ? ……違ったよな。路線は同じだけど。さては、乗り過ごしたな?」
 望月が呆れたように目を細める。
「だいぶ飲んでたもんな。俺と同じ電車で帰るの断って、さらに飲みに行ってたみたいだし」
「ご明察通りでございます」
「公園で野宿するつもりか? それで体調崩されたら困るし、まあ……仕方ないから、うちに泊まって、ちゃんと寝ろ。客用の布団があるからさ。……おい、そんなあからさまな警戒の目で見るなよ、親もいるんだから、変なこと起こるわけないだろ」
「そ、それならありがたくお言葉に甘えて……」
 ご両親がいらっしゃるなら、男の家とはいえ安心だろう。かえって気まずいけれど。っていうか、望月実家住みだったの? なんとなくシャレオツマンションに住んでるイメージだったから、意外なんですけど。
 私は立ちあがろうとして、そして、果たせなかった。
「……ええと、ブランコの揺れで酔いが回って立てない。あと、ヒール、いつのまにか折れてる」
「阿保か」
 ぴしゃり、と窓が閉まった。
 ほどなくして、スウェットにサンダルを履いた望月が公園に現れた。いつもピシッとスーツを完璧に着こなした姿しか見ていなかったから、寝巻き同然の姿で気兼ねなく外に出てくることに驚いた。まあ、こんな格好も、ひと気のない真夜中だからこその特権だ。私にとっては、ある意味眼福。
「はい、水。と、サンダル。オカンの勝手に持ってきた」
「ありがとう」
 ペットボトルの水を受け取り、ハイヒールを脱ぎ捨ててサンダルに履き替える。その間に、望月も隣のブランコに座る。
「お、月がちょうどいい眺めじゃん」
「いまこそ、月が綺麗ですね、って言いたいところだけど、ヘンな意味になるからやめとくわ」
「そのフレーズのせいで、気軽に月を褒められなくなったよなぁ」
 望月がキコキコとブランコを揺らす。
 なんの気もなさそうなその横顔に、ちらりと視線を送ってから、ペットボトルに口をつける。ああ、冷たさがアルコールを押しのけて五臓六腑に染み渡る。
「それ、百五十円な」
「暴利だ。ドラッグストアなら八十円ぐらいでしょ」
「運搬料込みってことで。まあ、宿代と一緒にして、後日三倍返ししてくれればいいよ」
「わかった、宿代百円ってことにして、後日菓子折りをお届けします」
「勝手に料金決めるなよ。ってか、べつになにもいらんわ。甘いもの好きじゃないし」
「菓子折りは望月へのお礼じゃなくて、望月のご両親と布団様へのお礼だから」
 私はぐいっと水を飲み干した。
 それを待っていたように、望月がブランコから立ち上がる。
「多少は醒めたか? じゃ、行くぞ」
 私はちょっと目をみはった。望月の手が、真っ直ぐ私に差し出されていたからだ。まだ酔っててふらつきかねないと思われてるんだろう。確かに、この状況はある意味ふらつきかねない。
 それならばと、望月の手をぎゅっと掴み返してやった。引き寄せんばかりの力を込めて。
 今度は望月が目をみはる。
 いまこそ、私のブランコが、いちばん月に近づいた瞬間だ。こんなに心揺れる夜は、真夜中の公園に迷い込んだ私だけの特権で、そして、人生最後のチャンスになるだろう。

2/2/2024, 8:35:32 AM