新年
食べ切った蕎麦のどんぶりを洗う彼の平たい背中を見ながら、ザルの水気を拭き取る。「普段は自炊を全くしない」と笑う彼に、「栄養はとりなよ」と他人行儀なアドバイスをする。SNSに疎いくせに山盛りのラーメンの投稿だけは頻繁にあげている彼のストーリー。それを見ていたからこその発言なんだけど、そこまでチェックしていないと思われてる彼にはあまり響かないだろう。2人してリビングに戻り、湯船にお湯が溜まるのを待つ。そろそろ歌番組が始まるとテレビのチャンネルを変え出した姿を端に捉えながら年の瀬に盛り上がるタイムラインを巡回する。また、今年もいつもと変わらない年越しを迎える。
こんな時にしか使わないからといれた貰い物の入浴剤も彼にとってはいつもの年越しのいつものお風呂なんだろうな。白く色が変わった湯の面を撫でながらこの一年をぼんやりと思い返してみる。が、リビングから聞こえてくる彼の歌声に邪魔されて思考が働かない。高音が出づらいその掠れた声に口角があがった自分の姿がお風呂の鏡にうつっているのに気づいて、見られるはずがないのに慌てて顔を戻した。今年もそんなふうに終えていく。2人ともドライヤーを終えてリビングに揃う頃には年越しまであと2時間を切っていた。
彼がお気に入りのお揃いの銘柄のビールで乾杯。自分はすぐに眠くなってしまうのでたった1缶のアルコールを年越しまでちびちびと飲み進める。自分の缶が軽くなる頃には彼は何本目か分からないプルタブを引いていた。よく同じものを飲んでいて飽きないなと思う。飲むよりも食べるほうが好きな自分は、番組が一段落してCMが挟まる間に冷蔵庫からアイスの大福を取り出してきた。寒いけどコタツに入って食べる分には問題ない。いそいそと部屋に戻れば、真横に座っていた彼がわざと体を広げて自分の陣地を小さくしていた。ソファの柔らかい面を背もたれにしてコタツにくるまり体を脱力させながらテレビを見ることができる自分の冬の定位置。そのスポットを善意で半分貸してあげていたのに、図々しくもその8割ほどを独占する彼を少し睨みつけた。きっとふざけて自分の反応を楽しんでいるだけだから、こちらも遠慮なくぐいぐいと体を押して隙間に入り込むと彼は声を上げて笑っていた。いつものくだり、いつもの狭さで夜は進む。さっきのおふざけのせいで近くなった距離の、むやみに動かしづらい左肘を気にしているのもいつものこと。そう言い訳して冬らしい名前のついたアイス大福の一つをもちゃもちゃと食べ進める。
「なぁ、それ一つちょうだい。」
にやにやと笑いながらあと一つしか残ってないそのアイスを指さす彼。いつも寒いのにとアイスを食べる自分を笑っている彼が、甘いものにそこまで興味のない彼が、なぜ?からかっているだけだと即座に判断して「いやだ」と切り捨てる。いつもならすぐに引き下がるはずなのに、今回はなぜかやけにお願いと食い下がってくるから、その熱量に負けて仕方なく残りの一つを渡した。嬉しそうにその一つを食べる彼の姿を見て首を傾げつつも、残りが少なくなってきた缶の残量をまた一口分減らした。
年越しまであと何分というカウントダウンが画面の隅に現れて、あぁ今年ももう終わりかとぼんやりと思っていると横にいる彼が口を開いた。
「もう一年終わるなー。」
酔いが回っていてほとんど眠くなってきたから、うんとかそうだねとか適当な相槌をうってあくびをした自分を気にせずに彼はテレビを観ながら続けた。
「いつまで許される?」
脈略のないその発言を理解しきれず、ゆっくりと彼の方を見ると自然と目が合った。
「いつまで、俺はここで年越していいん?」
その一言を聞いた途端、ぐっと胸が痛んだ。酔いが一気に抜けるように、先程食べたアイスが今更主張してくるように体が段々と冷える感覚があった。いつものふざけた雰囲気はどこへやら、どこか重苦しい雰囲気がのしかかる。
人を家に入れるのに抵抗のある自分にとっても、彼の来訪は毎年待ち侘びていたものだった。学生時代ほど頻繁に顔を合わせることがなくなっても、会う回数が減り年末の一回だけになっても、ここで一緒に年を越して、他愛もない会話をするだらだらとした時間を続けるだけで満たされていた。不意に押し寄せてくる諸々の不安に気を病みそうな時も、年の瀬の忙しい時に時間もお金もかけてわざわざ自分に会いにきてくれる彼のことを思うとゆったりと息をつけた。何年も前から、友達のカテゴリーに収納するにしては少々大きくなりすぎた彼の存在を見て見ぬふりしていた。年を越すたびにまた溢れた引き出しを無理やり閉めて、彼への自分の感情に合う名前を探すのを諦めていた。何よりも傷つくことが、失うことが怖かった。だから、彼の来訪に鬱陶しそうにドアを開ける素振りを見せていたのも、素っ気ない対応をしていたのも、憎まれ口ばかり叩いていたのも、いつまで続くのか不明な学生時代の口約束の終わりが来た時に、なんでもなく振る舞うための予防線。何よりもその終わりに怯えていたのは自分の方で、いつまでこれが許されるかなんて、聞いたら終わる気がして口を噤んでいたのも自分の方だった。そうだったはず。なのに、なぜ?彼の目は綺麗だなとか、久々にこんなにしっかりと顔を合わせたなとか、そういう手前のことには思考を働かせられるのに、肝心の返答までには至らない。いつまで許されるのか。そんなの分かんない。えっと、という意味もない3文字を繰り返す自分に、彼は優しく、重く、口を開く。
「終わりにしてもいい?」
重々しい沈黙に響く掠れた大好きな声は、恐れていた言葉をはっきりと表していた。こう言われた時に「そりゃ、元々そっちが言い出したんだから勝手にしていいよ」なんてよどみなく言うために張ってきた予防線だったはずなのに。実際は涙がじわりと滲む顔を俯いて「うん」と弱々しくも強がる2文字しか発せなかった。いやだ、なんで、おねがい、まだ…湧き上がる言葉はひとつも言葉にできずに、古くなったコタツ布団の端が少しほつれているのをぼうっと見つめていると急にテレビの音量が上がった。いや、どちらもリモコンは操作していないから音量自体は変わらないはずで、ただ中にいる人たちが盛り上がったのだろう。ハッピーニューイヤーと口を揃えて芸能人が笑っている。最悪の年越しを迎えた。
「あ、明けたんか。」
じゃあ、とでも言うように彼は何本目かわからないような缶を持ち上げて自分の方へ差し出す。いつもの新年の乾杯だ。しかし、これが最後の乾杯だと考えてしまうと震える手が缶を持つのを拒否しようとしていた。いつまでも缶を持とうとしない自分を見て、彼も持ち上げていた缶を置いた。
「じゃあ、いい?」
またその彼が発した言葉の意味を汲み取れず、続く言葉を待つ。さっきみたいに真剣な表情をして少し息を吸ってから言葉を紡いだ。
「好きです。付き合ってください。」
エイプリルフールは3ヶ月後だとか、新年早々初嘘は縁起が悪いとか、その言葉を言葉の通り受け入れる前に、何よりもネガティブな性格の自分が顔を出す。だって、そんなはずないじゃないか。自分たちはずっと友達でやってきて、今だって友達で。それ以上の感情を持っていたのは自分だけのはずではないか。ぐるぐると疑問が頭を駆け巡る。でもきっと、いつもみたいにからかっているだけだろうと諦めてしまうと取り返しのつかないことになることは分かっていた。嘘でもいい。ふざけててもいい。恥ずかしくてもいい。深く考えるのはやめよう。ぎこちなくではあるが、彼に伝わるように頷いた。「自分も」と言葉を付け加える。怖くて反応は見れない。
「ほんまに?」
彼の嬉しさが滲む声と背中に回された腕の優しさに気づくと脱力した。それと同時に本当だったのかと気づいて顔が赤くなる。そういえばこんなふうに触れ合ったことだって無かった。肘を合わせるだけで満足していた数分前のことを思うと、やっぱり今の状況は信じられない。どういうことかもあまり理解できていない。
「年越し…これから、どうすんの?」
終わりにするとついさっきまで言っていたのは何だったのか。
「ずっと、この関係じゃないと一緒にいられへんと思ってたから。もし俺が欲出したら終わっちゃうんかなって。」
あぁ、なんだ。同じ悩みを抱えていただけだったと気づくと、無意識に張り詰めていた意識が緩み、どこかのネジがばかになって涙が溢れた。彼はそんな自分の涙を拭いながら、控えめに笑う。
「これからもずっと、一緒に年越ししていい?」
今度こそ本音で、うんと伝える。すると、今度は彼が安心したように涙を流して二人で大泣きした。涙が枯れ、赤くなった目元を笑いあいながら、ほとんど空になった缶で今度こそ乾杯をした。一生続くと錯覚してしまいたくなる幸せな年が始まった。
1/2/2026, 9:42:53 AM