まだ十八になったばかりの青年、弥助は暇を持て余して平日の真昼間に外に出た。列車に乗って付き合いの長い田所の家にでも行こうと思ったが金がない。仕方なくいつもと真逆の道を散歩する事にした。
少しいつもの道を外れると、もう其処は全くもって自分の知らない街だった。ただ一軒程跨いだ所であるのに、空気も、色も何もかも違う様に感じた。
弥助は単純に面白いなと思った。見た事もない花が的皪と輝いていたり、家に垂れている暖簾には余り聞かない言葉が生き生きと跳ねていたりと、弥助の目を強く刺激したので少し目眩がした。
坂道に差し掛かった辺りで途端に雨が降り出した。小雨だった。傘を持っていなかったので立ち往生した後、雨宿りが出来そうな所を見つけたので、止むまで此処に居ようと思った。
知らない街が、いつも通り静寂をかき消してゆく雨に降られていても、其処はまだ弥助の目には新しく映っていた。二十分程経ったのだろうか、いい加減目の前の景色に慣れてしまったが一向に雨は止む気配を見せない。
走って帰るべきかと悩んでいたその時弥助の後ろの戸が開いた。雨にも勝る音を立てて開いた。戸の奥には痩せた男が立っていた。落ち着いた色の着物を着て煙管を吹かせていたその男の顔はとても落ち着きを纏っていた。
その男は弥助を認識しても驚いた様子を見せず、雨が降っているのかと言った。其の男は手探りで如何にも洋風の高価そうな傘を取り出し弥助の方に差し出した。彼はすまないが此処まで取りに来てくれますか、と言った。
その男は盲目のようであった。
有難う御座います、と弥助は正直に傘を受け取った。
すると男は不図、今日はとても雨の匂いがしますねと言った。雨が降っているのだから当たり前じゃないかと心の中で思いながらも、弥助は其処で初めて雨の匂いを嗅いだ。その匂いは自分の若さを自覚させるような気がして余り好きではなかったが、この匂いが今までずっと近くに居たことを知って大変驚いた。男が住むこの辺りは弥助にとって新しいものであったと同時に弥助と男が感じるこの辺りの町の表情も全く違うのだと分かった。
二言程言葉を交わして弥助は其の家を後にした。
その傘は落ち着きのある香水と煙の匂いがして、弥助の鼻にも手にも直ぐには馴染んでくれなかったがそれすらも弥助に新鮮さを感じさせた。
五分程歩いたところで急にまた雨が弱くなって止んだ。其処はもういつもの道であった。
弥助はその道すらも懐かしさを感じて心が跳ねた。
ところにより雨が降ったその日の雨は、弥助に新しい風を吹かせながらやって来た。
弥助は部屋に戻っては窓を開けて、さっきまで自分がいた方角をみた。其処にはもう黒い雲はなかった。
また明日にでも御礼と共に傘を返しに行こうと思った。
3/25/2026, 5:41:40 AM