羊飼いの夢の跡

Open App

 昔ながらの和室に敷かれた布団で上半身を起こし、外を眺める。縁側の奥にあるこぢんまりとした庭では、桜の花がひらひらと舞っていた。毎年のことながら、その姿を見ると妙に寂しくなってしまう。
「なんだ、起き上がって大丈夫なのか」
 出会った頃よりも背は縮んでシワシワになってしまったお爺さんが、気遣わしげにこちらへと寄ってくる。
「ええ、随分良くなったわ」
 そう言ってまた桜の木のほうをみれば、お爺さんは思いついたように席を立った。そしてすぐに戻ってきたかと思えば、2人分の麦茶を持ってくる。
「あら、麦茶にはまだ早い季節じゃない?」
 ご丁寧に氷まで入った麦茶は、娘の真奈に見つかれば、病人に何飲ませているの!と怒られかねないだろう。だがお爺さんはさも当たり前のように、嫌だったか?と聞いてくる。
「ふふ、まさか」
 渡された麦茶を飲みながら、2人でゆったりと桜の木を眺めた。まだ満開になってそう時間は経っていないが、早くも葉っぱがつき始めている。きっと雨が降ってしまえば、このままあっという間に散ってしまうのだろう。
「こうやって桜を見ていると思い出すなあ。ほら、辰樹を妊娠していた時だ」
「ああ、真奈の時よりも悪阻が酷くって困った時のことね」
 懐かしい思い出に目を細めると、お爺さんは神妙にうなづいた。
「あの頃は毎日食べられるものが変わって、ドキドキしたもんだ。だが、麦茶だけはなぜかずっと飲んでくれてなあ」
「そういえばそうでしたね。あの時も2人で麦茶を飲んで桜を見たわ」
 今ではすっかり年老いてしまったが、まだ若かった頃も変わりなくこうやって2人で麦茶を飲んでいた。そうやって2人でゆっくりしながら話して、眠くなって横になるまでがセットだ。
 そう思い出すと途端に眠くなってくるから不思議なもの。
「ねむるのかい」
「ええ、ちょっとだけね。まだ私は元気よ」
 そういうとお爺さんはひどく嬉しそうに笑って、2人分の麦茶を手に取った。
「真奈に怒られる前に証拠隠滅せにゃならん」
「あらあら」
 くすくすと笑いながら、ゆっくりと目を瞑る。
「おやすみ」
 その声と共に瞼の上に置かれた手が、いつもと変わらず冷たくて暖かくって、幸せな気持ちで眠りにつく。まったく、ただの風邪なのに大袈裟なんだからと、いつまでも変わらない桜とお爺さんの優しさが暖かかった。

10/6/2024, 10:42:24 AM