さよならを言う前に
いつもより数ミリ長くアイラインを引いた目が鏡越しに見つめてくる。
せんせえさよなら、みなさんさよなら、またあしたあ
窓の外から聞こえる元気のいい掛け声に口の端が醜く上がる。
小学校の近くの物件に決めたのは、いつか子供を通わせられたらいいねと話していたからだ。
あんなに屈託なくその4文字を言えたのはいつまでだっただろう。
長く引いたアイラインの上にシャドウを載せる。──綺麗な色だねと褒めた声を思い出す。
鎧のようなスーツと剣のようなハイヒール。あとは念を入れた化粧が、これから臨む負け戦へのできる限り最大の防御策。
午後3時、外のうだるような熱さを全く感じさせない涼やかな喫茶店で徐ろに一枚の紙を取り出すと、目の前の男は明らかにほっとしたような顔でちらりと隣の女を見遣った。
「…確認してくれる。提出後に不備が見つかっても面倒だから」
「あっ、うん」
いそいそと受け取って紙に目を通す男。隣の女はちらちらとこちらと紙を見比べるように視線を動かす。ふわふわと巻かれた髪。丸い目とつるつるの唇。綺麗に塗られた爪。…随分とまあ、典型的なひとと争う羽目になったものだ。
「えっと…あとここだけ判をついてくれたら、他は大丈夫そうかな」
「…判ね」
鞄から印鑑を取り出して朱肉を軽くつけ、紙ナプキンを下に引いて紙の上に押しつける。
「これでいい?」
「あ、うん、あの……あ…ありがとう」
笑顔。ほんわかとした陽だまりのような笑顔が好きだった。それひとつで感情がほぐれて癒やされるような気がしていた。台座にしたナプキンで朱肉を拭き取って鞄に戻す。
「…飲んだら? 氷で薄まっちゃうでしょ」
運ばれたときにはガムシロップが混ざりきらずにゆらゆらしていたレモンティーが、今は女の手の近くで汗ばんでいる。ガムシロップの姿はもうない。「あっ、はい」とか細い声を出して女はストローをつかんだ。左手薬指に光る指輪。ひと粒ダイヤモンドの薄いピンク色に、ああ、指輪を忘れてきた、と思い出す。目の前で返してあげようと思っていたのに。
「ええと、それで…提出だけど、一緒に行く…?」
「冗談言わないで」
笑った。半分以上呆れ笑いだけれど、本気の笑いだった。うっかりするとそのまま涙まで零してしまいそうなほど。
「わたしはもうあなたに提出したでしょ。2度目は勘弁してよ」
「あ……ごめん」
「謝らないで」
注文したコーヒーはとっくに空になっていたので水を一口。こんな量じゃ乾きは収まらないけれど、これ以上飲んだら吐き出してしまいそうだ。
「あのね。短かったけどわたし、あなたのお嫁さんになれて嬉しかった。ほんとに」
「………」
「…じゃあ、わたしはここで。これまでありがとう」
にっこり笑った。これは99%が偽物の笑いだった。嘘でもお幸せになんて言ってやらない。夏の暑さの中でエアコンの風を感じるたびこの笑顔を思い出せば良い。新妻に困らせられるたび懐かしく思えば良い。もう一生二度と見られない顔を惜しめば良い。
何も言えない男とレモンティーのストローを握ったままこちらを小さく睨むような女。そんな顔しなくていいよ、あなたは勝ったんだから。戦利品をもう持っているんだから。
せんせえさよなら、みなさんさよなら、
「さよなら」
やっぱりあんな屈託なくこの言葉を言える時代は過ぎた。“また明日”なんて来ない。
だから鮮やかに去ってやる。鎧も武器も未だ外していないから。
鍵を回してドアを開けると、じんわりと暑いがらんとした部屋に迎えられた。
ヒールのない足が小さな違和感と共に床を踏む。シワを伸ばしてジャケットをハンガーにかける。冷たい水がアイラインをアイシャドウを落とすと、目は熱い水をどろどろと流し始めた。
あしたまた会えるさよならを最後に言ったのはいつだっただろう。
8/20/2024, 10:33:48 AM