作家志望の高校生

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人間は、他人のことを声から忘れ、最後に残るのは匂いの記憶だという。きっと、これは本当なのだろう。だって、俺の鼻腔に染み付いたあの洋梨の香水の匂いは、一生離れてはくれなさそうだから。
アイツとは、最低の出会いから始まった。血と吐瀉物が飛び散った校舎裏、日もすっかり沈みきったような時間だった。いつものように喧嘩に明け暮れ、数十人の不良とやり合って伸した後。不意に、ぱちぱちと間の抜けた拍手の音がした。見ると、飴玉を咥えた金髪の男がいる。細身な体躯にバランスのいい長身は、いかにもなモテ男といった様相だ。
「音がしたから来てみたけど……正解だったな。」
そう言うや否や、男は急に俺に飛び蹴りを入れてくる。咄嗟に腕で受けたが、中々重たい。喧嘩後のアドレナリンが抜けきっていなかった脳は、瞬く間に疲れを吹き飛ばして体を戦闘態勢に持っていった。
それから小一時間殴り合った。日が沈んでも僅かに差していた陽光さえ完全に潰え、辺りが薄暗くなり始めてからようやく、俺達はその場に倒れ伏す。勝負はどこまでも平行線で、体力が尽きた。
それから俺は、やけに彼に気に入られたらしい。後で分かったが、彼は俺の先輩で、そこそこ有名な男だったらしい。初めは付きまとってくる先輩がウザったらしくて仕方なかったが、慣れると逆に、傍にあの香水の匂いが無いことに落ち着かなくなっていた。無骨な石鹸の匂いしかしなかった俺にも匂いが移るくらい、一緒にいた。
けれどある日、先輩が捕まった。大きめの喧嘩の後だったらしい。少年院にこそ送られなかったが、保護観察処分になった先輩は学校を退学になった。最も、元々俺達みたいなのはギリギリ退学を回避しているだけで、いつなってもおかしくなかったのだが。
結局俺は、先輩の顔を再び見ることなく学校を卒業した。学生時代を喧嘩に明け暮れて過ごしたような奴にまともな職が務まるわけもなく、俺はそこそこ良かった顔面を生かして歌舞伎町で女を転がして金を稼いだ。
女からする花の噎せ返るような香水の匂いを嗅ぐ度に、先輩のあの、甘く爽やかで、けれどどこか燻る空気を感じるような香水を思い出す。先輩の声は、もう思い出せない。
物思いに耽りながら、今日の客を引くために夜の街を歩き回る。男も女も等しくゴミのように暮らす街の雑踏の中、似合わない、硬質な革靴の音がやけに耳に響いた。
俺の鼻があの洋梨の匂いを拾ったのは、それから数秒後のことだった。

テーマ:梨

10/15/2025, 8:07:06 AM