Ayumu

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 黒い噂の絶えなかった館の主をようやく裁けたその日、地下牢に捕らえられていた者のうち、ひとりの男がなかなかその場から動こうとしなかった。

「……そこの。お前はもう助かったんだぞ。いつまでそこにいるつもりだ」

 最初は動けないほど衰弱しているのかと思ったが、他の被害者とあまり変わらない姿形をしているし、最初に会話をしたときも普通に会話できる状態だった。
 いや、もしかしたら張りつめていた精神が急に緩んで、急激に悪化してしまったのかもしれない。その場に片膝をついて目線を合わせ、手を差し伸べる。

「……ここを出ても、また同じ目に遭うだけだ」

 光の満足に届かないここは、余計に周りが薄汚れて見える。そんな壁に背中を預けたままの男は、感情の薄い声でつぶやいた。長い前髪に隠れて表情がわからない。

「お前のように、かわいそうな目に遭ってた俺を助けたやつがいた。そいつは俺が気を許した途端、金のためと俺を売った」

 最初から金が目当てだったのか、心変わりしてしまったのか、悲しい話だが、今回の事件の首謀者のような人間がはびこる世界では、よくある話ではある。

「そこでこき使われていた俺を、またお前のようなやつが助けた。もちろん俺だって馬鹿じゃない、信用なんてしなかったし、回復したらすぐ出て行くつもりでいた。でもそいつは、巧みだった。人たらしとでも言えばいいのかね」

 そして、男はまた同じ運命を辿る。それ以降も、こうして出会うまで、何度も。

「もう俺は未来が全然見えねえんだ。ここを出たってまともな生活を送ってる俺なんて想像できない。だったらここで野垂れ死んだほうがましだ」

 声が震えている。ようやく、男の心に少し触れられた気がした。
 男の正面に回り込み、まっすぐに見下ろす。前髪の隙間から、虚ろな男の瞳が見え隠れする。

「だったらその命、私に預けてみないか」

 わずかに男が身体を揺らしたように見えた。

「ちょうど、メイドのような者が家にほしいと思っていたところだったんだ。私はてんで家事が苦手でな」
「……本職のやつを雇えばいい」
「目の前に職を失った者がいるのに?」

 無茶苦茶な屁理屈なのはわかっている。
 だが、この絶望に染まった男をなんとしても助けたかった。命を無駄に失ってほしくなかった。

「そんな綺麗事、どうせ今だけだ。お前もいずれ、俺を無残に扱う。金のために売る。性の捌け口にする」
「……わかった。なら、お前を裏切った瞬間に、すぐ私を殺してほしい」

 はじめて、はっきりと私を捉えた。

「これを預けておこう」

 腰から護身用の短刀をベルトごと外し、男の膝に乗せた。男の視線がゆっくりと、それに移る。

「肌身離さず持ち歩くといい。裏切った判断はお前に任せる」

 もう一度視線を向けた男は、乾いた笑い声をこぼした。
「……馬鹿すぎないか。お前、そこそこの地位にいるやつだろ。さっき、隊長とか言われてるの、聞こえたぞ。そんなやつを俺が殺したら、痛い目に遭うのは目に見えてるぞ」
「そこは適当に言い訳を考えておいてくれ。俺に殺されそうになったとか盗人に襲われたとか」
「お偉いさんが呆れるな」

 しばらくして、男が両手をゆるゆると持ち上げ、短刀に触れた。
 剥き出しにした刃の先を、こちらの喉の方に向ける。

「殺してほしい、なんだな」
「なに?」
「殺してもらってかまわない、みたいな言い方じゃなくてさ」
「……ああ。己で立てた誓いを裏切る結果になるわけだからな」
「真面目すぎ。でもそういうやつほど豹変しやすい」
「もちろん信じろと軽く口にするつもりはないさ」

 男は深く息を吐き出すと、頭を軽く振った。
 あらわになった相貌はなるほど、中性的な美貌をしていた。薄汚れていてもそうとわかるのだから、相当だろう。

「わかった。お前が大人しくしている間は、従順なメイドになってやるよ」
「それでいい」

 改めて差し出した手を、男は空いた手で取った。


お題:未来

6/18/2023, 1:07:29 AM