おじ☆チャン

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夜の海
 
 夜の海には魔物が出る。
 そんなおとぎ話を子どもの頃に聞いて、いてもたってもいられずに海へ駆け出したのはいつかの少年時代。
 少年は青年になりすっかりと背が伸び顔つきに幼さを残しつつも大人への成長を思わせるようになった頃、そんな話をふと思いだし、すっかり暗くなった海岸にただ立ちつくしていた。
 もちろん魔物などいようはずもなく、ただ一面を覆う薄暗さと波の音に支配された空間。
 青年は死に場所を探していた。
 ここは丁度良かったが、どうにも踏ん切りがつかない。
 ここが今完全な暗闇であれば踏ん切りがつこうか?
 そう思って、海岸沿いの道路にある街頭を怨めしく思うが、どうにもそう言うわけではない。
 むしろ街頭の放つ光から離れれば離れるほど後ろ髪引かれるような、背中を、足を引っ張られるような気持ちになって結局光の恩恵に預かる所に立ちつくすしかなかった。
 結局は意気地が無いのを何かのせいにして粋がってみてるだけなのである。
 そしてそれがどうにも情けなく思えて、涙があふれしまいにはしゃがみこんで肩を震わせていた。
 10分はしゃがんでいただろうか。
 ひとしきり泣けば気持ちは切り替わり青年は海へと歩みを進め、波打ち際まで来た。
 だが、今度は遠くから聞こえて来ていたはずの波の音が大きな威圧感を持って青年を襲う。
 今まではBGMとして機能していた波音が、水と音その両方を現実的距離の近さを強調するかの如く大きくなり青年に間違いようの無い死を与えるためにそこにあると言わんばかりの力強さを持ってそこにあった。
 光の元へ戻りたい。そう思い振り返ればそこには無機質な光を放つ街頭があるだけだが、青年にはその光が母のぬくもりのような、そう錯覚させるだけの生がそこにはあった。
 だがそんな妄想を吹き飛ばさんばかりに頭をふり1歩。
 ぴちゃ…。
 冷たい。
 もう一度街頭の方へ振り向きたい欲求が溢れる。
 だが、反抗した。
 反抗期と言う年でもないが何かにすがりたい弱い気持ちへの反抗心のようなものがそうさせたのかもしれない。
 ここに来ても青年はまだ粋がっていたのだ。
 2歩。びしゃ…
 まだ濡れていなかった左足までもが水の侵略を許し両足を海に浸す。
 そこからは恐る恐る1歩2歩と確実に死の感覚を覚えながら足を伸ばすが水が膝を浸し始めた頃。
 自らの眼前にある海の広大さに思考を止めた。
 眼前を埋めつくす圧倒的な黒、どこまでも伸びている黒色。
 それに気付いた瞬間いても立ってもいられず一目散に元いた場所へと駆け出していた。
 今すぐあの場所へ行かないとダメだダメなんだ。
 ただそう思って初めより少し小さくなった光へ駆け込む。
 息も絶え絶えに街頭の下で青年は今にも泣き出しそうな気持ちでうなだれていた。
 一念発起して挑んだ人生最後の大事も結局は自らの意気地が無いことの証明になってしまったみたいでどこまでも惨めな気持ちが水のように心を埋めつくしていく。
「おーい、にーちゃん!」
 すこししゃがれた声がどこかからか青年の耳へと入る。
 こんな時に他人の声が聞こえるとは、帰り支度も時間の問題だなと思った時、1人の老人が20メートル程離れた所から手を振っているのが目に入る。
 紛れもない現実の光景であり、死を恐れる心が耳に勝手に押し込んだ幻聴では無いのは確かであろう。
「早くこっちへ来い!わしゃあ困っとるんじゃ。」
 何か変だ。これはもしかしたら死を恐れる心が目を耳を侵し始めたのではないか?青年はから寒い物が全身を駆け巡るような気分になる。当然である。時刻は午前1時頃人などいようはずもない。
 だが、そんな思考に反発して震える足を老人の方へと向けていく。
 こんな時でもまだ粋がる。
 光から離れ肩が一瞬震え、寒気が全身を覆い尽くす。
 体がこの少しの時間で冷えきっていたようで次第に震えは全身へと廻ってきた。
 青年が温もりを求めた街頭は所詮は無機質な光を放つモノであり、錯覚の温もりは与えても本物の温もりなど与えてはくれない。
「ようやくきたなまぁ良いわい、にーちゃんよく聞けそこに木が組んであるだろ?それに火を着けたいんだかライターが固くて中々火付けに火がつかんのだよ。わかもんの力で何とかならんか?」
 まず、安堵した。目前にいる老人は偽物でもなく、ましては死神の類いではなさそうであるからだ。
 いいですよ。と老人からライターを受け取ったはいいが、中々着かない。
 震える手を何とか押さえてライターを押すがそもそも火が着かない。
 何10回繰り返したか分からないが、気付けば火が着き、それを火付けにかざす。 
 火は一気に燃え上がり、青年に安堵と温もりを提供し出す。
「いやいや良かった良かった。これで酒が飲めるわい。ほれ、にーちゃんも飲んでけ!心配するな肴もしっかりあるでよ。」 
 そう言って老人はコップを差し出す。
 だが、青年は断った酒など飲んだこともなければ、そもそもまだ17なのだ法律上でも飲めるはずはない。
「なんだ、飲めんのか?どうせ死ぬのだから最後に老人の酒に付き合え!」
 全てお見通しだった訳だ。
 あきらめてコップを受け取り老人の持った一升瓶から注がれる液体をどこか遠い目で眺める。
 そしてそれを一気に煽る。
 辛かった。それも特段に。だが、それ以上に冷えきったハラの底から沸き上がるような温もりが心地よい。
「なんじゃイケる口じゃないか、ほれ、一服せ。」
 そう言って老人はタバコを差し出す。もうどうにでもなれといった気持ちで青年はそれを受け取り、手元にあったライターで火を着けるが上手くいかない。
 どうやっても完全に火が着かないのだ。
「なんだタバコも初めてか?火を吸うんじゃよ。こう………ふぅ……わかったか?」
 なるほど、老人のマネをして吸い込むが、酷く咳き込んでしまう。
「ふぁふぁふぁ最初はだれもそんなもんだ。ほれ、もう一杯飲め!」
 それからしばらくして青年は完全に出来上がった。
 酒の魔力はこれ程かと思わせる程に先程の陰鬱な青年が陽気な青年へと出来上がってしまった。
 いや、酒だけではないのであろう。肴もまた良かった。
 この海で取れるであろう乾きものや刺身が絶品であった。
「この酒は海神様の加護があるんじゃよほれ、もっと飲め!」
 海の神が愛した酒なれば海の幸と相性が良いのもうなずける。
「それでわしゃあなぁ、仕事柄良かれと思ってやった事が裏目に出たり、それが原因で人に恨まれるなんてざらにあるんじゃよ…。まぁそんなわしでも酒とこの海があればなんとでもなるもんよ!にーちゃんもそう思うだろ!?」
 思い切り良く肯定する。
 人生の中でも最高の瞬間であった。
「悩みがある悩みが振りきれるくらいにならなんでも踏み込んで挑戦せい。お前は酒もタバコも人生で初めて呑んだのに、こんなに出来上がって上出来じゃないか。これからたくさんの初めてに遭遇するのに勿体なかろうて。いくつになっても初めての挑戦はし続けるがよいぞ。」
 この言葉のために老人は青年を呼んだのではないかと思えるくらいに力強くはっきりと言った。
 それからは太陽が昇るまで飲み歌い語らった。
 この日悩みから死を選ぼうとした青年は死んだ。
 そして今日。新しい事に踏み込む勇気を持った青年が生まれたのである。
 生まれ変わった青年が初めて見る太陽は温かく彼を祝福し包み込むような包容力を持ち、海は祝いの唄を歌っているかのように感じられる清々しい朝だった。
 決してこれは強がりではないもはや青年は粋がる必要などないのである。
 夜の海には魔物などいなかった。
 いたのは酒飲みの老人。
 だが、これは良い出会いであろう。
 これからの彼らに幸あれ。そう願わずにはいられない水曜日の朝だった。

8/16/2023, 1:02:39 PM