『微熱』
疲れた。今日は何度も凡ミスをした。本当に些細なミスだ。大きなミスではなく本当に数の数え間違いだったり、誰にも迷惑はかけていないが、それでもミスはミス。金曜ともなるとストレスが溜まっているのかと思った。
「中野くん、大丈夫?」
「え?」
パートのおばさんに声をかけられて、ハッと我に返った。退勤時間を過ぎてもボーッと自分の席に座ったままだった。
パソコンの電源を落とし、広げた資料を片付け、飲みかけのコーヒーカップを給湯室に持っていく。なんだか目も疲れている。パソコンの画面を眺め過ぎたのか、頭も重い。
置いてあったスポンジに洗剤をつけようとして洗剤のボトルをシンクに落とした。本当に今日は疲れているようだ。コーヒーカップを洗い、カップを伏せると、鞄を持ってトレンチコートを腕にかけた。
朝は寒かったんだが、オフィス内は暖かい。外に出る時に着ればいいと思った。
秋は物悲しい。人恋しいとでもいうんだろうか。スマホを取り出し、こんな時にだけ連絡を取る奴にメッセージを送った。
『今から会えるか?』
彼女との関係は単純なものではない。会う度に体を重ねているが恋人ではない。昼間明るいところでデートなどしたことがない。
彼女とは大学のサークルの飲み会で会った。その頃はお互いに恋人がいたから、恋人にはならなかった。だが社会に出て、お互いに恋人と別れても、恋人にはならなかった。
恋や愛なんて感情はない。好きで仕方ないなんて思ったことはないし、彼女も恋人になってくれとは言ってこない。
恋人になったら末路は結婚か別れの二択しかない。だが名前のない関係であれば結末など気にすることはない。
いつ終わってもいいとも思うし、永遠に続けたいとも思う。
『今仕事終わったとこ。渋谷でいい?』
彼女からの返信がきてホッとする。人肌が恋しかったのか、それともこんな時だからこそ気を遣わなくていい彼女に会いたかったのか。今日に限って回転の悪い頭は、その二択ですら答えを出せない。
「お待たせ」
「いや、今来たところだから。飯食う?」
「だね。お腹すいた」
適当な居酒屋に入って、生を二つ、続けて焼き鳥やサラダを頼む。
「ここの焼き鳥、ちゃんと炭で焼いてるみたい」「そんなこと分かんの?」
「分かるよ。炭の香りがして美味しい」
「そんなもんか」
どうも今日は感覚が鈍い。味も香りもぼんやりとしている。
「いくか」
「だね」
腹が膨れると、いつものホテル街へ向かう。どこのホテルがいいと決めているわけではなく、空いているところに適当に入る感じだ。
長居はしない。終われば少し休んで帰るんだから、こだわりもない。
「風呂、一緒に入る?」
「いいよ。アキくん今日は甘えたい感じ?」
「ん、そうかもな」
そんな曖昧な回答にも、ふふふと笑って流してくれるのが心地いい。
彼女の胸に顔を埋めると、なんだがとても安心した。なめらかな肌と、彼女の吐息、柔らかい感触。
「ねえ、アキくん体熱くない? お風呂に入ったからかなって思ってたんだけど、終わってもずっと熱い気がする」
「そうか?」
「熱測ってみる? 体温計あるよ」
「そんなの持ち歩いてんの?」
ピピピピピ
「うん。微熱だね。37.2度」
「そうか」
今日の頭が働かない感じも、ミスも目の疲れも、感覚が鈍いのも、全部熱のせいだったのか。
「送っていこうか? 近くだったよね」
「ああ、うち泊まってけよ」
「え? いいの?」
彼女を部屋に連れて行くのは初めてだ。彼女どころか誰もこの部屋に入れたことはない。
彼女は帰り道、コンビニでスポーツドリンクやゼリー、カップ麺のうどんを買った。
彼女には俺の部屋着を貸して、風邪がうつるかもしれないが、狭いシングルのベッドに一緒に入った。
夜中に熱は上がった。彼女は洗面器に氷と水を用意して、額に冷たいタオルを乗せてくれたり、上体を起こしてスポーツドリンクを飲ませてくれた。
朝になる頃には熱は引いていたけど、一人きりじゃないことが嬉しかったし、救いになった。
「なあユカ、俺と結婚しない?」
「うん。いいよ。それっておはようより先に言うこと?」
「まだ寝るからな。次起きた時に言う。それとユカ、ありがとう。夜中起きてたから眠いだろ? 一緒に寝よ」
「うん」
微熱で気付く恋があってもいい。
(完)
11/26/2024, 3:51:24 PM