汀月透子

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 私のクラスには、細かすぎるルールがある。提出物は右上を揃えること。発言は手を挙げてから三秒待つこと。廊下は右側を、一定の速度で歩くこと。

 誰も守っていない。でも私は守る。
 守らない人に注意すると、決まって返ってくる。

「頭固いって」
「誰もやってないじゃん」

 それでもいい。守っていないと、落ち着かないから。

──そう思っていた。

    ****

 最初の違和感は、ほんの一瞬だった。
 チャイムが鳴る前に席に着いたとき、音が遅れて聞こえた。私の動きに合わせて、世界が追いついてきたみたいに。

 それが、何度も起きる。
 順番を守って発言すると、周りの声が消える。廊下を規定通りに歩くと、誰にもぶつからない。まるで、私の行動だけが《正解》みたいに。

 ある日、私はわざとルールを破ろうとした。
 でも、できなかった。足が、勝手に減速する。手が、勝手に止まる。正しい行動に、戻される。

──気づいてしまった。
 守っているんじゃない。守らされている。

    ****

 その日の放課後、廊下を歩きながら、私は決めた。
 全部、無視する。走る。順番も守らない。誰かにぶつかってもいい。

 足に力を込めた、その瞬間。

 視界の端で、何かが動いた。天井の隅。黒い点みたいなものが、こちらを見ている。

 血の気が引く。
 それでも踏み出し、走った。

──次の瞬間、世界が歪む。
 音が消える。
 空気が固まる。
 そして、意識が落ちた。

    ****

 目を開けると、白い天井だった。消毒液の匂い。カーテンの向こうの光。

「……気がついた?」

 横を見ると、養護の先生がいた。穏やかな声。

「少し貧血みたいね。無理しちゃだめよ」

 私は起き上がろうとして、止まる。さっきのことを思い出す。

「先生……あの、」

 言いかけて、言葉が詰まる。何を見たのか、うまく説明できない。

 養護教諭は、少しだけ首をかしげた。優しい笑顔だけど、目が笑っていない。

「あなた、ちゃんと守ってる子だったのにね」

 その言い方が、引っかかった。

「……守ってたら、どうなるんですか」

 思わず聞いてしまう。
 先生は一瞬だけ黙って、それから、微笑んだ。

「安心するでしょう?
 全部が、きれいに整うから」

 その声は優しいのに、どこか冷たかった。

「でもね」

 先生は続ける。

「あの子たちを覚えてる?
 あなたと同じように、完璧に守っていた子たち」

 私は、首を振ろうとして、止まった。

──誰かのことを、考えようとしている。でも、輪郭がつかめない。

「観測する意味がなくなったものは、記録されないの。
 記録されないものは、残らない」

 先生の声が、遠くなる。

「整いすぎたものは、残らないのよ」

 私は何か大事なことを、今わかった気がした。言葉にしなければ、と思った。

 でも、カーテンの外で誰かの笑い声がして。

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 教室に戻ると、何も変わっていなかった。騒がしくて、雑で、まとまりがない。

「お、復活じゃん」

 誰かが軽く手を振る。

 私は席に座って、周りを見渡す。
──何かが、足りない。人数は合っているはずなのに。席も埋まっているのに。

 先生に、何か大事なことを聞いた気がする。
 でも、何だったか。
 誰かが、いた気がする。

「ねえ、このクラスって……」

 隣の子に聞こうとして、やめる。言葉にできない。

    ****

 その日から、私はルールを完璧には守らないことにした。理由はわからない。ただ、そうしなければいけない気がした。
 わざと少し遅れる。順番を外す。廊下を、少しだけ速く歩く。すると、あの《視線》は現れない。

 でも、ときどき思う。

 もし、また全部を守ったら。あの子たちの名前を、思い出せるんじゃないかって。

 黒板の前で、チョークの音が響く。私はノートを開きながら、ふと天井を見上げる。そこには、何もない。

──何もないはずなのに。
 ほんの一瞬だけ、見られている気がした。

4/25/2026, 9:19:22 AM