「海へ」
この夏、母が死んだ。
美しく快活で、器用な母が死んだ。
何年もの間病気だったから、覚悟していた。つもりだった。
覚悟もしていたし、準備も整えてきたつもりだったけど、何もかもうまくいかない。手続きやら何やらに追われて悲しみに暮れる暇もない。
ボーっとしていたのか、それともセカセカ動いていたのかも分からないまま、ぼくは母の遺骨を受け取り終わっていた。
あまりにもあっけなかった。
その帰り道、母が生前言っていたことをふと思い出した。
『私が死んだら、お骨を海に流してちょうだい?』
なぜそんなことを頼むんだと思い聞くと、もっと広い世界を見て回りたいからだと母は答えた。それから、海に行けば、またみんなに会えると付け加えた。
次の休みの日、ぼくは暖かい海へ向かった。
きっと母は北の海よりも、こういう珊瑚礁のあるような海の方が好きだろうと思ったからだ。
散骨をサポートするサービスの人たちがぼくを出迎え、労ってくれる。意外とカッチリしすぎていない雰囲気だったから、ぼくは少しほっとした。
説明を受けたあと、小さなボートに乗って海の真ん中まで来た。
ぼくはこの海と、スタッフの人たちと、それから母に挨拶した。
こんにちは。よろしく。ありがとう。そして、さようなら。
だんだんと、母だったものが海に溶けていく。
だんだんと、母がいなくなっていく。
だんだんと、母を忘れてしまう。
でも、これは母の望んだことだから。
ぼくにしか叶えられない願いだから。
そう言い聞かせて、散骨を終わらせた。
なんとか用事は終わったはずなのに、気が抜けてしまって何もできない。ぼくは島を少し見て回ったあと、最後に海を見た。
母を溶かした海は、透き通っていて眩しかった。
ここを離れるのが名残惜しくてできない。
でも、ぼくも進まないと。母が一歩進んだように。
ぼくは海風を背中に受けながら、砂浜を離れた。
どこかで母が、手を振っていたような気がした。
8/24/2024, 2:12:05 PM